昨日の2022年4月14日付で、読売新聞は、「【独自】財務局への四半期報告書を廃止へ…政府が来年度にも法改正、企業負担軽減狙う」という記事を公表しました。そのため、SNSの会計クラスタは、この話題で持ち切り。大方は、賛成の模様。
それ、本気ですか。
特に、監査関係者が賛成の声を上げるのは、不思議で仕方がない。無知か、大勢に流されているか、それとも、何も考えていないのか、のいずれかにしか思えません。
この報道からは、四半期報告書の制度を廃止することが伝えられているため、おそらくは四半期の決算短信には触れないものと読み取れます。もっとも、決算短信は取引所の話のため、政府がとやかく口を出すものでもないのでしょう。
ここで、質問。もし、四半期報告書が廃止され、かつ、四半期の決算短信が存続するとしたら、一体、どういう状態になると思いますか。
それは、四半期に関する財務情報が、何ら保証されないまま流布してしまう状態。公表された財務情報が信頼できるのかどうか確信できない中で、機関投資家や利害関係者はその情報を利用しなければならないのです。
これは、ボクが会計士だからといって、ポジショントークをしているものではありません。ここで紹介したいのは、ある著名なアナリストの話し。
確か、日本監査研究学会のイベントだったと記憶しています。4、5年ほど前に、年度決算の決算短信を会社法の計算書類の監査報告書が出た後にリリースしていた事例があったようです。それを挙げながら、信頼性のある情報開示の姿勢を高く評価していたのです。
やはり、利用者サイドとしては保証の付いた情報を得たいと考えているんだな、と納得しました。また、何でもかんでも速報性を求めているワケではないことも新しい気づきでした。
もちろん、作成者サイドにも影響が及びます。保証が付されていない情報を開示したところで、その業績がそのまま利用者サイドに受け入れられるものではないでしょう。ある程度割り引かれて評価されると、資本コストが引き上げられるため、かえって企業価値が低めに評価されてしまいます。また、自社が開示した情報が信頼に値するものだと力説しなければならない状況もあるかもしれません。
その意味で、監査関係者がそんな状態を望むことが信じられないのです。なぜ、保証が付されない財務情報が出回ることを手放しで喜んでいるのだろうと。おそらく、10年目もしないうちに、保証が付されていない四半期の財務情報に「不適切な会計処理」が行われるでしょう。その結果、保証の必要性が叫ばれるのが目に見えています。
まあ、手放し喜び組みの一部には、理解の乏しい発言もみられました。「四半期報告書が廃止となったときに、まさか決算短信に四半期レビューが求められることなんてないだろう」という誤解に基づく発言が。
いやいやいや、四半期レビュー制度の前は、新興企業市場(マザーズ)の上場会社に対して、第1四半期と第3四半期の四半期財務情報の公表と、四半期財務諸表に係るレビュー報告書の提出を求める制度がありましたからね。ちなみに、「四半期レビュー」とは異なる「レビュー業務」。そこに戻ることだって十分にあり得ます。それはさておき。
保証が付されない財務情報が出回ることを問題視するなら、四半期報告書よりも、決算短信のほうを廃止すべき。正確には、決算短信に添付する四半期財務諸表です。
もしも速報性を踏まえて存続させるなら、四半期財務諸表は添付しないほうが良い。そのとき、鏡である決算短信の記載単位は、四半期財務諸表よりも大きなもの(例えば、財務諸表が百万円単位なら、鏡は億円単位など)としたほうが良い。これなら、決算短信が公表された後でも、監査の指摘を受けての修正が行いやすい。
さらにいえば、今回の件は、コスト削減の観点も考慮しているとのこと。2022年4月15日に、財務大臣が「コスト削減の観点から見直すべきとの意見があることを踏まえた」と説明しています。本気でコスト削減で見直すなら、四半期報告書の廃止ではなく、会社法と金融商品取引法の一本化でしょう。
そんなことを考えると、四半期報告書の廃止って、ガス抜きのような感じが漂っています。その代わりに、気候変動をはじめとした開示を増やすのか、それとも、違う何かが求められるのか。ボクはとても手放しでは喜べない。