残業時間を告げる時計の針は、またしても深夜を指していた。入社して5年目の田中真理子は、オフィスの薄暗い照明の下でため息をつきながら、山積みの契約書と向き合っていた。
「これで何件目だろう…」
机上に広げられた契約書の束を見つめる真理子の目は疲れを隠せない。新リース会計基準への対応という重責を任された彼女は、ここ数ヶ月というもの、まともな睡眠すら取れない日々を過ごしていた。
画面に映るExcelファイルには、百件を超える不動産賃貸借契約の詳細が並ぶ。ここから、借手のリース期間を決定しなければ、使用権資産やリース負債の計上に至らない。各契約から、解約不能期間の有無や更新条項、中途解約条項の内容の精査に追われていた。しかし、借地借家法の知識が不足している真理子には、その判断が重荷でしかなかった。
「田中さん、この契約の延長オプションの判断根拠について、もう少し詳しく説明してもらえますか?」
先日の監査法人とのミーティングでの質問が、今でも耳に残っている。答えられなかった自分の無力さを思い出すたびに、胸が締め付けられる。
まだ新リース会計基準に対応したシステム投資にゴーサインが得られていないため、すべての作業を手作業で行わなければならない現状。関連部門との調整も思うように進まず、締め切りは刻一刻と迫っていた。
「田中君、影響額の試算はいつ頃出せそうかな?」
経理部長からの言葉が、重たい鎖のように首に巻き付く。監査法人への説明資料を作成しなければならないのに、通常業務との両立にも限界を感じていた。
深夜のオフィスで、真理子はモニターに映る数字たちと静かに向き合う。一つの判断ミスが会社全体の信頼を揺るがしかねない—その重圧が、彼女の肩に重くのしかかっていた。
「でも、ここで諦めるわけにはいかない」
真理子は深いため息をつくと、再び契約書に目を向けた。明け方まであと数時間。彼女の長い夜はまだ続く。
窓の外では、東京の夜景が静かに輝いていた。高層ビルの明かりは、同じように深夜まで働く誰かの存在を示すように、点々と光を放っている。真理子は少し心強さを感じながら、キーボードを打つ手を止めることはなかった。
そんな中、デスクの上に置かれたスマートフォンが微かに振動した。画面に目を向けると、同期の小杉からのメッセージだった。
『真理子、大変そうだね。実は昨日、すごくためになるセミナーに参加したんだ。「《不動産賃貸借に焦点を当てた》新リース会計基準の解説」っていうやつ。定期借家契約にもあんなに論点があるだってことが設例でよくわかったよ。明日、ポイントをシェアするね!』
真理子はため息まじりに苦笑した。確かに、あのセミナーの案内は見かけていた。「あの時に申し込んでおけば…」という後悔が、疲れた心に沁みた。