2025年3月上旬。霧坂美咲は窓際に立ち、外の景色に目を向けていた。冬の名残と春の兆しが混じり合う空の下、本社ビルの周囲では木々が静かに芽吹き始めていた。新リース導入プロジェクトの会議室に、氷倉隆が入ってきた。
「このプロジェクトの成果を取締役会で報告することになった」
管理本部長の声には、いつもの静かな権威が感じられる。美咲は窓から視線を戻し、氷倉の言葉の重みを受け止めた。
「確か、このプロジェクトを承認した流崎取締役にだけ説明するはずだったのでは…」黒嶺尚吾の疑問に、氷倉は軽く目を閉じた。
「当初はな」彼の声は低く落ち着いていた。「しかし、事情が変わった。取締役会で社外監査役から新基準の対応状況について質問があったらしい」
夜島誠人は、プロジェクトの責任がどんどん重くなっていくのを感じていた。美咲と少しでも一緒にいたいという個人的な思いが、どこか遠くへ押しやられていく気がした。会議室の空気が、少しずつ緊張を帯びていく。
「霧坂、行けそうか?」
氷倉の問いかけに、美咲は一瞬ためらった。「現在、不動産賃貸借契約の検討は残り20%まで進んでいます。ただ…」彼女の視線が窓の外へ向かう。「年度末の3月なので、皆さん、自分の部門の仕事が…」
「その点は大丈夫だ」氷倉の声に力強さが混じる。「当初から3月の報告は中間報告として考えていた。数字面のインパクトはまだ先でいい。それより、取締役や監査役は課題の提示のほうに関心を示すだろう」
美咲の表情が少し和らぐ。「それなら、何とかなりそうです」
「現状の課題は何だ?」
「ネックは割引率です」美咲は即座に答えた。「『借手のリース期間』が長いものがあるため、それに見合った割引率の設定には専門的なスキルが必要で…」
「それは今月じゃ厳しいな」氷倉は考え込むように腕を組んだ。しかし、すぐに結論を出す。「だったら、割引率はいったん無視しよう。負債、資産ともに過大になるが、保守的でいいだろう。その点は取締役会で説明しておく」
「その方針なら」美咲の声に自信が戻る。「使用権資産の調整項目については、すでに算式を用意していますから」
「それじゃあ、頼んだぞ」と氷倉が会議室を後にすると、誠人が心配そうに美咲に近づいた。
「おい、本当に大丈夫か? 使用権資産ってリース負債にいろいろと足したり引いたりするんだろ」
「大丈夫」美咲はホワイトボードに向かった。彼女の手が、マーカーを持って動き始める。
「使用権資産は、リース負債を現在価値に割り引くことで算定します」彼女の声には確かな知識が滲んでいた。「リース負債は、将来に拘束されるキャッシュ・アウトフローの現在価値を意味するでしょ。でも、今回は割引率をいったん無視するから、リース負債からの調整項目の話に進めます」
誠人、沙織、黒嶺は、ホワイトボードに描かれていく図に見入った。美咲の解説に、会議室の空気が知性を帯びる。
「使用権資産を計上するための調整項目には、通常のものと不動産賃貸借契約に特有のものがあります」美咲のマーカーが滑る。「通常の場合、リース負債に三つの項目を加算し、一つを控除します。リース開始日までに支払った借手のリース料、付随費用、資産除去債務に対応する除去費用を加算して、受け取ったリース・インセンティブを控除する」
「何で、そんな調整が必要なの?」誠人の素直な疑問に、美咲は微笑んだ。その表情には、教えることの喜びが浮かぶ。
「とても良い質問です。ここでは二つの調整を行っているんです。ひとつは固定資産の取得の調整、もうひとつがキャッシュ・フローの調整です」
「確かに」沙織が身を乗り出す。「固定資産を取得した場合、付随費用も、資産除去債務も計上するから、リース負債と同額では不十分ね」
「そう」美咲は満足そうに頷いた。「残りがキャッシュ・フローの調整です。リース負債は将来のキャッシュ・アウトフローでしょう? すでに支払ったキャッシュ・フローは含まれていません。でも、資産計上するには、両方のキャッシュ・フローを足さないとバランスが取れない。その調整が『リース開始日までに支払った借手のリース料』です」
黒嶺が静かに頷く。「合理的だな」
「じゃあ、リース・インセンティブって、何なの?」誠人の声には困惑が混じっていた。「どうもピンと来なくて」
「ピンと来ないのは仕方がないかも」美咲の声が柔らかくなる。「どこにも定義が示されていないから。実務的には、貸手がリース契約の締結や継続を促進するために、借手に提供する優遇措置を指していると考えられます」
「そんなのがあるの?」
「例えば、移転や設備設置の補償や、既存のリース契約の補償などがあります」美咲は例を挙げながら説明を続けた。「こうしたインセンティブは、実質的にリース料の値引きと変わらないから、使用権資産の対価から控除するんです」
「なるほど、合理的だな」黒嶺が腕を組みながら大きく頷く。その横で沙織も同じポーズを真似て「合理的だ、合理的だ!」と声を上げる。その明るさが、会議室の緊張感を少し和らげる。
「この他に」誠人は疲れた表情を見せながらも、質問を続けた。「不動産賃貸借契約に特有の調整もあるの?」
美咲はホワイトボードに新たな項目を書き出した。『借地権の設定に係る権利金等』『差入預託保証金の支払額と現在価値との差額』『約定で将来返還されない差入預託保証金と差入敷金』
「新リース会計基準では、借地権は土地を使用する権利だから、使用権資産に含めて計上します」美咲の説明は続く。「定期借地権も同じ。その結果、使用権資産の償却に応じて費用処理されることになります。ただし、非償却も選択できるから、会計方針として決めなきゃいけないんだけど…」
「使用権資産に含めると、その償却分だけ毎期の費用が増えるな」黒嶺の指摘に、美咲は嬉しそうに「そのとおり!」と答えた。
「2つ目は、差入預託保証金の会計処理に関連したものです」美咲の指がボードの文字を指す。「将来返還される差入預託保証金は、返済期日までのキャッシュ・フローを割り引いた現在価値で計上します。この支払額と現在価値との差額を、原則として使用権資産の取得原価に含めるんです」
「すぐに割り引くんだな、新リース会計基準は。夕方のスーパーの特売じゃないんだから」誠人のぼやきに、沙織が小さく笑った。その笑い声が、会議室の空気をさらに和らげる。
「で、3つ目」美咲は最後の項目を指差した。「差入預託保証金と差入敷金について、将来返還されないことが契約上定められている金額を使用権資産の取得価額に含めます」
「なるほど」黒嶺が感心したように頷く。「だから契約書チェックの際に、返還されない部分の金額も拾い出していたんだな」
夕暮れが近づき、会議室の空気が少しずつ柔らかくなっていく。美咲は最後にこう付け加えた。
「そう、だから、手戻りする作業はないかなって」
その言葉に、三人は驚きを隠せなかった。そこには、このプロジェクトへの責任感と、去り際まで完璧を求める彼女らしさが表れていた。窓の外では、まだ冬の名残の風が吹いていたが、確かに春の気配が感じられた。それは同時に、美咲の旅立ちの日が少しずつ近づいていることも、静かに告げていた。