Accounting

『リースの数だけ駆け抜けて』第12話「誤解の連鎖」

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2025年5月下旬の午後、陽光はもはや春の柔らかさを失い、初夏の鋭さを帯び始めていた。霧坂美咲はその光を背に、手元の資料に目を落としている。会議室の大きな窓からは、遠くに高層ビル群が霞んで見えた。新リース会計基準導入プロジェクトも、いよいよ大詰めを迎えていた。

「どうだ、進捗は?」

氷倉隆の低い声が、会議室の空気を震わせた。いつもなら威圧的に聞こえるその声も、今日は少し違っていた。期待と信頼が混じったような、かすかな温かみを感じる。美咲は氷倉の変化を敏感に察した。

「はい、これから最後の不動産賃貸借契約の検討に入ります」

美咲の声には、微かな達成感が混じっていた。部屋の隅で、夜島誠人がその横顔をじっと見つめていることに、彼女は気づいていた。ここ数週間、彼の視線には何か特別なものが宿っていた。それは留学の話題が出てから顕著になった。美咲はそれを理解していながらも、敢えて触れないでいた。

氷倉は満足げに頷いた。「ここまで、よく来たな」

その言葉には、本心からの評価が込められていた。しかし、その表情はすぐに引き締まる。光と影が入り混じる顔に、複雑な思いが浮かんでいた。

「前にも話したとおり、取締役会の報告の後には、監査法人との協議が待っている。一般的な重要性を持ち出そうとしている話はしたよな。日本の基準には書いていないことの提案だから、きっと反論してくるだろう」

美咲の表情が一瞬だけ硬くなった。彼女の瞳の奥に、過去の記憶がよみがえる。監査法人との厳しいやり取り。証拠の提示を求める冷たい視線。その光景が生々しく蘇り、胃の辺りが少し締め付けられる感覚があった。

「だから」氷倉の声に力が込められる。その言葉には、彼の考える最適解への確信があった。

「この提案のベースになっている君たちの検討結果をつぶさに調べるに違いない。だから、霧坂は計算式と判断方針を、黒嶺と陽野は契約書類の整備を、夜島は店舗開発計画を、しっかりと準備をしてほしい」

そう言い残して会議室を去っていく氷倉の後ろ姿を見送りながら、夜島誠人は美咲に向かって呟いた。「宿題が増えたな」

美咲は両肩を上げて見せただけだった。その何気ない仕草に、誠人は思わず目を細めた。彼女のこんな表情を、あと何回見られるだろう。留学が決まってからというもの、彼は美咲の何気ない一挙一動に、これまで以上に敏感になっていた。見慣れた美咲の日常の一部一部が、いつか終わると思うと、胸が締め付けられる感覚があった。

「では、始めましょう。恵比寿店の契約をお願い」

いつもの美咲の声が、誠人の思考を現実に引き戻す。

「ついに、これが最後の検討だ~」

陽野沙織はそう言いながら、まるでアカデミー賞の発表で封筒から取り出すように、慎重に契約書を取り出した。そのちょっとした芝居がかった所作が、会議室の緊張を和らげる。

「発表しますっ」

「真面目にやれ」

誠人の声には焦りが混じっていた。彼の心は別のところにあった。美咲がいなくなってしまう現実。それに向き合う心の準備ができていない。だから彼は、いつもより短気になっていた。

だが、沙織は気にせず、明るく続ける。「契約種類は建物賃貸借。使用目的は事業用で、契約期間10年。月額賃料120万円、ただし最初の6ヶ月は30万円。中途解約条項なし。5年ごとの自動更新条項付き」

「なるほど」黒嶺尚吾の声が、契約書類の整備チェックを行いながらも、冷静に響く。

「中途解約条項がないから、契約期間の10年が『解約不能期間』だな。自動更新条項によって延長オプションがある。10年を超えて、延長オプションの行使が『合理的に確実』な期間をどう判断するかが、『借手のリース期間』の決定のポイントといえる」

「そう」と美咲は続けた。「ここからは、経済的インセンティブを考慮していきます」

美咲はホワイトボードに向かった。彼女の手が、マーカーを持って動き始める。その動きには無駄がなく、まるで美しい舞のようだった。誠人はただただ見入ってしまう。

「恵比寿店の出店工事で、建物附属設備が多額に計上されています。物理的使用可能期間は15年。契約満了の10年で解約すると、未償却残高がまだ大きいので、除却損も多額に計上されてしまいます。しかし、契約を1回更新して15年利用すれば、除却損は極めて軽微で済みます」

「だけど」と黒嶺は続ける。「2回更新すると、追加工事や補修費用が発生するな。結果として、財務的な負担が増加する。つまり、15年を超えた延長オプションの行使は『合理的に確実』とは判断できない」

その時、誠人が思い出したように話し始めた。「そうだ。この店舗、ブランディングにかなり力を入れたんだ。競合店よりいい立地を探すのに苦労したんだ。簡単には移転できない」

美咲は静かに頷いた。その瞳には、誠人の成長を見守る優しさが宿っていた。この数か月で、彼は確実に変わった。プロジェクトの初めには、「霧坂のメンドクサイ説明」と称して肉まんを食べながら聞き流していた彼が、今では積極的に意見を述べていた。

「ということは…」沙織の声が期待を込めて揺れる。

「コストも考慮すれば、15年の利用が『合理的に確実』だ。つまり、『借手のリース期間』は15年」

誠人の声には、珍しい確信が込められていた。会議室の空気が変わる。そこには何か、達成感のようなものが漂い始めた。

「そう!」

美咲の笑顔に、誠人の心が跳ねた。その笑顔が、どれほど彼の心を揺さぶるか、美咲自身は気づいていなかった。

「随分と、新リースの考え方に慣れてきた感じね」

この褒め言葉が、どれほど彼の心を揺さぶったか。誠人は気恥ずかしさを誤魔化すように目をそらした。「これくらいは誰だって…」

「ただ、これが最後の契約書。もうちょっと早く慣れてくれれば…ね」沙織の茶目っ気のある声に、美咲も黒嶺も思わず笑みをこぼした。しかし、その温かな空気は長くは続かなかった。

「まずいぞ、これは」

黒嶺の声が、突如として会議室の空気を変えた。彼の眼鏡の奥の瞳が、鋭く光る。「陽野、赤坂店の定期建物賃貸借契約。『更新がない』ことの事前説明書、どうなってる?」

「え? このプロジェクトの契約書フォルダにコピーしておきましたけど」沙織の声が少し上ずる。そこには、自信と不安が入り混じっていた。

「このファイル、宅建士の重要事項説明書だ。これじゃ、定期契約の有効性を証明できない」

温かな空気が、一瞬で凍りついた。沙織の顔から血の気が引いていく。彼女の目が、恐怖に少し見開かれた。

「まだ時間もあるし、大丈夫だから」美咲は冷静に声をかけた。しかし、その瞳には微かな不安が宿っていた。彼女はこのプロジェクトを完璧に終わらせたかった。それは日本での最後の仕事。

「それにしても、本部長はなんであんなに準備しろって」

誠人の疑問に、美咲は静かに答えた。

「監査法人の先生方が、”No documentation, no evidence.”って言葉を使うことがあって…」

「資料がなければ、証拠にならない」黒嶺が意味を補う。「赤坂店が普通建物賃貸借契約と判断されると、このプロジェクトの判断方針に基づくと、残存耐用年数で『借手のリース期間』が決まるな」

「今、出店してから3年が経っているから、残りの契約期間は2年だ」店舗開発室の誠人は出店時期を即座に思い出せる。彼の頭の中には、担当した全店舗の情報が整然と並んでいた。

美咲が計算を始める。「耐用年数15年。残り12年…」

「ということは、リース負債は今の試算よりも6倍。月額賃料が500万円だから、6億円の上乗せだ」

黒嶺の言葉に、沙織の表情が曇った。

「ごめんなさい。担当の課長に確認して取り寄せます」沙織の声から、いつもの明るさが消えていた。そこにはただ、問題を修正したいという切実な思いだけがあった。

四人の間に、重い沈黙が落ちる。取締役会への報告。監査法人との協議。それらが突如として、巨大な氷山のように彼らの前に立ちはだかる。

美咲は無意識のうちに、来月末の退職日を思い浮かべていた。このプロジェクトの結末を見届けられるのか。そして、誠人への想いは。答えの出ない問いが、彼女の心に重くのしかかっていた。

 

(第13話「専門家という壁」へ続く)

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