Accounting

『リースの数だけ駆け抜けて』第13話「専門家という壁」

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2025年6月中旬。梅雨の晴れ間から差し込む光が、会議室の窓を通して、待機するメンバーたちの表情を照らしていた。霧坂美咲は、手元の資料を整えながら、窓の外の風景に目を向けた。曇り空の向こうに、わずかな青空が見え隠れしている。取締役会に対する新リース会計基準導入プロジェクトの最終報告。その瞬間を待ちながら、彼女の心は微かに揺れていた。

時計の針が11時を指しても、呼び出しはこない。美咲は自分の爪を見つめた。ほんの少し伸びている。彼女はノートパソコンに映る自分の姿を確認し、耳にかかった髪を整えた。そんな仕草を、夜島誠人が横目で見ていることに気づいていた。

「随分と遅いですね」

美咲の声には、かすかな焦りが混じっていた。彼女にとって、このプロジェクトは日本での最後の仕事になる。それだけに、完璧に終わらせたいという思いが強かった。

「お昼のメニューを考えていたりして」

陽野沙織の明るい声が、張り詰めた空気を和らげようとする。

「そんな取締役会があるわけないだろ」

夜島誠人の返答は、いつになく真面目だった。彼のこの変化を、美咲は静かに見守っていた。プロジェクト開始当初の誠人とは明らかに違う。真剣さが、彼の目に宿っていた。

「もう~、冗談が通じないんだから~。今度は『真面目マン』?」

沙織の茶目っ気に、会議室に小さな笑いが漂う。黒嶺尚吾はその様子を、少し距離を置いて見ていた。彼の眼鏡の奥の目が、わずかに和らいでいる。

「まあ、いいじゃないか。俺達のプロジェクトで紛糾しているわけじゃない」

黒嶺の言葉に、美咲は安堵の息を吐いた。彼の冷静さは、このプロジェクトの支えだった。

「そうそう」美咲は氷倉隆に一枚の資料を手渡した。「これ、想定問答集ってものじゃありませんが…」彼女の声には、微かな不安が滲んでいた。「特に、水ノ原監査役が会計にうるさいって聞いて」

水ノ原──その名前を口にした瞬間、会議室の空気が微妙に変化した。大手監査法人のパートナーから社外監査役へ。普段は寡黙だが、会計の話題になると豹変する男だと聞いていた。美咲は上司から聞いた話を思い出し、無意識のうちに唇を噛んだ。

「以前、経理部長が取締役会で説明したとき、IFRS会計基準の反映について、かなり質問されたようで…」

「ああ」氷倉は穏やかに頷いた。「でも大丈夫だろう。3月の中間報告でも特に指摘はなかったし、流崎取締役にも概要は説明済みだ。君たちの検討結果について胸を張って説明できる」

その瞬間、氷倉のスマートフォンが鳴った。会議室に響く着信音に、全員が一瞬緊張した。

「お呼びだ。ありがとな」

彼は美咲の資料を手に、最上階へと向かった。その背中には、長年の経験から来る自信が感じられた。会議室に残された四人は、それぞれの思いを抱えながら、静かに待ち続けた。窓から見える雲が、ゆっくりと形を変えていく。

静寂に包まれた役員会議室。氷倉は淡々と報告を進めた。水ノ原の鋭い視線を感じるたびに、わずかに緊張が高まるのを感じていた。説明が終わるや否や、水ノ原の声が響く。

「日本の新リース会計基準は、IFRSと違ってガイダンスが少ない。さぞ苦労したでしょう」

その声には、長年の実務経験に基づく実直な懸念が感じられた。だが、氷倉には別の意図も感じられた。水ノ原は本当に心配しているのか、それとも単に自分の専門知識を誇示したいだけなのか。

「はい。プロジェクトのメンバーたちが、日本基準と格闘しながら検討してくれました」

氷倉の穏やかな返答に、水ノ原は眉を寄せた。その表情には不満が浮かんでいた。

「IFRSのガイダンスはどう取り込んでいる?」

氷倉は冷静に応じた。背筋を伸ばし、声の調子を変えずに答える。

「日本基準に明確に示されているとおり、IFRS第16号の主要な定めを取り入れているものの、そのすべてを適用することを目的とはしていません。ですので、日本基準の規定だけで判断しています」

「それでは実務が回らないのでは?」

水ノ原の声には、現場の混乱を危惧する真摯さが混じっていた。だが、その瞳の奥には別の感情も見え隠れしていた。自分の専門家としての価値を主張したい欲求。それを氷倉は見逃さなかった。

「確かに、IFRSのガイダンスは参考になります」と氷倉。「しかし、今回の改正はIFRS第16号と同じ適用結果を意図するものではありません。柔軟な会計処理が可能です」

「教科書的な回答ですね」水ノ原は首を振った。その仕草には、経験豊かな専門家の優越感が滲んでいた。「基準にそう書かれていることは承知していますよ。ただ、実務では、IFRSの詳細な規定が判断の助けになる。それが私の経験則です」

「新リース基準のもとでの適切な会計処理は、IFRS第16号に基づき会計処理を行った結果に限定されません」と氷倉。彼の声は穏やかだったが、その奥には揺るぎない自信があった。

二人の議論は、どちらも正しさを含みながら、かみ合わない。日本基準に基づき柔軟な会計処理を目指す氷倉と、IFRS会計基準こそ正とする水ノ原。異なる視点が、まるで並行する線のように交わることはなかった。会議室の他の取締役たちは、この専門的な議論に、ただ黙って耳を傾けるしかなかった。

水ノ原はしびれを切らした。「要は、素人で考えた結論」その声には、もはや取り繕う余裕もなかった。「そんなものに基づいて取締役が判断してよいのか、それを心配している。ちゃんとした専門家を使わないと、とても安心して…」

「お待ちください」

流崎取締役の声が、議論の空転を止めた。彼の声には、穏やかながらも確固たる権威があった。

「水ノ原監査役のご意見は貴重です。しかし、内容も確認せずに全否定されるのはいかがものかと」

水ノ原の顔が微かに赤らむ。彼は咳払いをして気持ちを落ち着けると、語気を和らげて話し始めた。

「しかし、IFRSのときには…前職のパートナーから聞いているんです。専門家を入れないと、とても実務は…」水ノ原の声が慌てて上ずる。氷倉はその様子を見て、内心でわずかに微笑んだ。状況の悪さに気づいたようだ。

流崎は静かに提案する。「7月1日に監査法人との協議が予定されています。そこで、専門家を加えなければいけないほどに酷い状況でしたら、すぐにでも専門家を探します。あと2週間もしない間に結論が判明しますが、いかがでしょうか」

水ノ原もこの提案に飲まざるを得ない。彼の表情からは、わずかな敗北感が伝わってきた。「流崎取締役の方針に異論はないため、結果を報告してください」

流崎は取締役会に参加しているメンバーに、この方針で良いかどうかを尋ねた。一同賛同したため、流崎は「では、次の報告事項に移りましょう」と切り出し、氷倉に退席を促した。氷倉は流崎に大きく頭を下げて会場を後にした。

下の階にエレベーターで降りた氷倉は、プロジェクトメンバーのもとに向かった。エレベーターの中で、彼は思わず深いため息をついた。この年になっても、人間の持つプライドの強さには辟易する。だが、氷倉自身も同じだということを、彼は自覚していた。

会議室のドアを開けると、四人の視線が一斉に彼に向けられた。彼らの目には、期待と不安が入り混じっていた。

「どうでしたか?」美咲の声には、わずかな緊張が滲んでいた。

氷倉は会議室に戻った報告を簡潔に伝えた。誠人の表情が次第に曇っていく。

「霧坂の計算モデルも見ずに否定したのか」誠人の声には怒りが混じっていた。美咲への想いが、彼の言葉に力を与えていることを、氷倉は感じ取っていた。若いな、と氷倉は思う。

「落ち着け」氷倉は諭す。「流崎取締役が収めてくれた。だが、結論は監査法人との協議の場にかかっている。ますます7月1日の重要性は増した。抜かりなく、しっかりと準備を進めてくれ」

氷倉が去った後、四人の間に重い空気が流れた。黒嶺は腕を組み、何かを考え込んでいた。沙織はため息をつき、無意識のうちに髪をいじっている。

美咲は窓の外を見つめながら、自分の退職日のことを考えていた。そして、まだ言葉にできていない想いのことも。梅雨の晴れ間は、いつしか薄い雲に覆われていた。

 

(第14話「最後の準備」へ続く)

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