随分と前に、謝罪の体験があります。謝罪される側もあれば、謝罪する側もある。この2つのケースが、たまたま同じような時期に生じたことから、ひとつの軸を意識したことを覚えています。それは、いかに事態を収束していくことを考えるか、というもの。
最初に、謝罪される側に立つケースが生じました。個人で動いている単発の案件で、担当窓口の姿勢が極めて悪かったのです。案件を進めているときには、プロの仕事とは思えない出来が提示される始末。また、案件が終わったあとには、入金の1年以上にわたる遅延。
もちろん催促をしていたのですが、担当者がのらりくらりとしている。そこで、組織のトップ宛てに連絡をした結果、最終的には入金されるに至ります。その過程で、担当者からトップが謝りに行きたいという連絡を受けました。
しかし、ボクの答えは、ノー。なぜなら、ただ謝るだけの場では、スッキリするのは謝った方だから。ボクとしては、ただ謝られても何も解決されない。迷惑をかけたほうが一方的にスッキリするのに対して、迷惑をかけられたほうはモヤモヤが晴れないまま。
ボクが期待している「謝罪の場」とは、謝ってもらうことではなく、この事態をどう収束していくかを協議すること。「こう、しませんか」という解決策を提案する意向がない以上、会う意味はありません。
そんなことがあった次に、謝罪する側に立つケースが生じました。何人かのグループで動いている継続の案件で、グループメンバーの不手際を原因として、相手のビジネスの損害につながりかねない状況が発生したのです。
グループリーダーであったボクがとった行動は、事態を収束させるために、即座に先方の担当者と話し合いました。責任者として謝罪するのに加えて、何が起きたのか、その原因は何なのか、影響が及ぶ範囲はどこまでか、その範囲に対してどうしていくかなどについて説明したうえで、今後の対処を協議しました。
その結果、事態が収まりかけていた頃に、グループの中から、ミスを犯したメンバーに直接謝らせるべきだとの声が挙がったのです。いくら不要だと説明しても、「そういうものだろう」の一点張り。
で、そんな場が急遽、セッティングされます。案の定、謝罪を受けた先方は、「ああ、そうですか」とのリアクション。何も解決しないことに付き合わされたのだから、当然のこと。その横には、スッキリとした顔をした人たちが、問題は解決したと満足そうにしている。どんな喜劇なんですか、これ。
そんな過去の経験があるため、ボクは、謝罪の場で何を目指すかを明確にしたい。謝罪される側の立場を踏まえて、どう収束させていくか。その視点がなければ、自分の満足にすぎない。謝ってスッキリとしたいだけでは、自己満足に他ならないのです。
謝罪される側は、精神的、身体的、経済的な苦痛の一部または全部を感じています。それにどう対処するか。謝ることで治癒するなら、それで済みます。ただ、ビジネスの世界では、謝罪だけでは済まないケースもあるでしょう。
また、謝罪が生じた案件が、一回限りの単発の関係とは違って継続的な関係のときには、再発防止策も必要になってきます。誰だって、何度も同じ苦痛を味わいたくないですからね。
そんな再発防止策の観点からは、ビジネスモデル・キャンバス的な発想が有益です。謝罪が必要な事態になったのは、提供する価値を適切に届けられなかったから。チャネルにおける誤りが、顧客との関係に影響を与えているのです。
その原因は、リソースにあるのか、アクティビティにあるのか、パートナーにあるのか。それを特定し、かつ、除去していかなければ、同じ過ちを繰り返しかねません。ビジネスモデルが正常に回っていかないのです。
このときに、注意で乗り切ろうとするのはダメ。「もっと注意を払います」「厳重にチェックしていきます」という努力では、再発防止策としては弱すぎる。そうではなく、仕組みとして考えていかなければ、つまり、モデルとして構築しなければ、また同じことが起きてしまう。
だから、謝罪するにあたっては、必死に頭を使う必要がある。そのせいか、少なくともボクのその2つのケースにおいて、「謝ればスッキリ」という感覚の人を見ると、何も考えていないように見えてしまう。
自分の視点にだけ立って、謝って自身をスッキリさせようとするか。それとも、相手の視点に立って、謝罪することに加えて、事態の収束について協議も行うか。その答えはひとつだと確信しています。謝罪の形を借りて別の意図を達成しようとするときであっても、謝罪に関する部分については同じです。