Accounting

『リースの数だけ駆け抜けて』第11話「監査法人との協議」

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2025年5月中旬。会議室の窓辺から見える街並みに初夏の陽光が降り注いでいた。いつしか桜は散り、若葉の季節に移ろいつつあった。

霧坂美咲は会議室に入りながら、そっと深呼吸をした。久しぶりのプロジェクトメンバーとの再会。新年度の開始と本決算の対応で一時中断していた新リース会計基準の導入プロジェクトが、ようやく再開されるのだ。

会議室のドアが開き、氷倉隆が颯爽と入ってきた。「3月の取締役会への中間報告は上々だった」氷倉隆の声には満足感が混じっていた。「ただし、6月下旬の取締役会で最終報告が求められた」

「あと1ヶ月半か」夜島誠人の声には、不思議な高揚感があった。それは美咲の退職が迫るにつれ、会える機会が限られたものになることへの焦りでもあり、期待でもあった。

「もう一つ」氷倉は一呼吸置いた。「監査法人との協議がセットされた」

黒嶺尚吾の眉が動く。「どういうことですか?」

「監査法人が3月の取締役会議事録に目を留めたようでな」氷倉は静かに説明を続けた。「今後の監査対応への影響を考慮してか、流崎取締役に状況説明を求めてきた」

沙織の茶色い瞳が好奇心に輝いた。「それはいつですか?」

沙織の問いに、氷倉は少し間を置いてから答えた。「7月1日だ」

「会社の創業記念日で休みの日じゃないか」誠人の声が上ずる。その反応には、何か別の意味が込められているようだった。美咲は誠人の横顔を見つめた。彼の中で何かが揺れ動いているのを感じた。

「ああ、だからこちらで時間は指定できる」

美咲は申し訳なさそうに口を開いた。「私は6月末での退職なので、申し訳ありません…」彼女の言葉が、会議室の空気を一変させた。誰もが知っていたことだが、それを口にした瞬間、現実味が増したのだ。

「霧坂が謝ることじゃない」誠人の声が強まる。その声には、怒りと諦めと何か別の感情が入り混じっていた。「そんな日程を指定した監査法人が…」

「それはともかく」氷倉が割って入った。「霧坂、もう少し残れないか? 有給を消化しない予定なら、7月末まで延ばして、プロジェクトを見届けないか」

一瞬の沈黙。その間に、美咲の心には様々な感情が交錯した。英国のビジネススクールへの留学の準備。未練。迷い。そして責任感。

「そうだよ、この表計算ソフトの式は霧坂しか説明できない」

誠人の言葉には、彼女に残ってほしいという願いが込められていた。それは単に業務上の必要性を超えた想いだということを、美咲は感じ取っていた。

「でも、退職書類はすでに…」

「任せろ」氷倉の声に力が込められる。「人事には俺が掛け合う。退職日を1日ずらすだけの話だ。な?」

美咲は少し考え込んでから、静かに答えた。「…作成者として、リースの算定モデルの行方は気になります。人事部がOKなら、1日だけ」

誠人の目に一瞬、安堵の色が浮かんだ。それは一日でも、美咲との時間が延びることへの小さな喜びだった。美咲もまた、その一日に何かの意味を見出していた。

「本部長」黒嶺が話を戻す。「今後の進め方は?」

「まず、取締役会のほうは、暫定処理した箇所をどこまで精緻化するかだな。割引率を除いて、不動産賃貸借契約をすべて処理するようにしよう」

沙織は元気に「オッケイ」と返事をした。彼女の屈託のない笑顔が、会議室の空気を少し和らげた。

「それに」氷倉は自信ありげに話を続ける。「監査法人との協議には、ちょっと考えがあってな」

「考え?」美咲が首を傾げる。その仕草には、いつもの知的好奇心が垣間見えた。

「確かに、君たちが作り上げている計算モデルは、今のままでも十分に通用するだろう。しかし、これは交渉事だ」

氷倉の声には、長年の経験から得た確信が響いていた。

「監査法人に確実に受け入れてもらえるように、もうひとつ、提案をするんだ。当日の協議の場を、イエスかノーかじゃなく、どちらを選ぶかに焦点を当てるんだ」

彼の言葉に、黒嶺と美咲が小さく頷いた。二人とも交渉術の本質を理解していた。選択肢を提示することで、拒否されるリスクを減らす戦略だ。

「それって具体的には?」と沙織は首を傾げる。

「別に無理難題を吹っ掛けるつもりはない。そもそも、全件オンバランスに疑問があってな」氷倉は腕を組んだ。「今後も契約は増える。状況変化でリース負債の見直しも出てくる。その作業負担を軽くしたい」

「それは合理的です。でも、どうやって負担を減らすのですか? 短期リースや少額リースは検討済みですよ」黒嶺が言いかけると、氷倉が遮った。

「一般的な重要性だよ」

「基準にない話じゃないか」誠人の声には驚きが混じっていた。彼は無意識のうちに美咲の方を見る。その視線には、彼女の意見を求める思いが込められていた。

氷倉は微笑む。いつもの鋭い表情とは違う、人間味のある表情だった。その微笑みには過去の成功体験が滲んでいた。

「そうだ、ASBJの基準には書いていない重要性だ」

氷倉の声には、かつての財務部時代の知識への自信が感じられた。会議室の空気が変わり、全員が氷倉に注目した。彼らはこの瞬間、普段とは違う氷倉の一面を見ていた。

「知っているか、IFRSのリース基準には、財務諸表への重要性が低い場合、リースの認識と測定を免除できる規定がある。少額基準を超えても、影響が小さければオフバランスが可能なんだ。これを使うんだ」

黒嶺の眉が寄る。彼の論理的思考は、すでに課題を見つけ出していた。「でも、基準には…」

「ASBJの『主なコメントの概要とその対応』を見たか?」氷倉の声が強まる。その言葉には反論の余地を許さない確信があった。「IFRSのこの取扱いは、一般的な重要性だから、少額に限らないとの見解が示されている」

美咲が静かに補足した。その声には、確かな知識に裏打ちされた自信がある。彼女が話し始めると、誠人は思わず身を乗り出した。

「ASBJの審議を見ていると、以前から、重要性の話題になると会計基準に規定することを疑問視しているんです。わざわざ書かなくても、当然に適用されるだろうって」

会議室の空気が変わっていく。氷倉の提案は、単なる交渉事を超えて、新たな可能性を示唆していた。全員の目に知的興奮の色が浮かんでいた。そこにはチームとしての一体感があった。

誠人は美咲の言葉に何か特別なものを感じていた。彼女の知識の深さ、そして説明の明瞭さ。それは単なる同僚以上の何かを彼の心に呼び起こす。

「それじゃ、なぜ、会計基準に重要性の記載を求める声があるんだ」誠人は質問する。彼の疑問には素直さがあった。それはまるで、美咲にもう一度話してほしいという願いでもあった。

「それはきっと」と黒嶺が推測する。「監査法人への説明の手間がなくなるからだろう。法律でもそうだが、会計基準に金額的な重要性が記載されれば、議論の余地がない。反対に、記載がなければ、各社で説明し、交渉することになる。その負担を回避したいからじゃないか」

沙織は誠人を横目で見ながら話した。「とにかく手間を省きたい人がいますからね~」その言葉には茶目っ気が込められている。

黒嶺は氷倉に確認する。「それでは、監査法人とどのように交渉するのですか?」

「オンバランス金額の重要性で3つにグルーピングするんだ」氷倉は説明を続けた。彼の指が空中で3つに区切る。その仕草には確信があった。「Aランクはオンバランス、Cはオフバランス。Bランクは、設定次第でオフバランスにできるかもしれない」

「合理的です」と黒嶺は返答した。氷倉は続ける。

「だから、割引前でいいから、全体のオンバランスの金額が知りたい。それを踏まえて、最後の検討を進めてほしい」

氷倉が会議室を去ると、空気がわずかに緩んだ。誠人はガラス越しに氷倉の背中を見送りながらつぶやいた。

「そんなことをして、どちらも駄目になったらどうするんだ…」その言葉には、美咲の手がけた計算モデルへの深い信頼が垣間見えた。

「大丈夫でしょ~」沙織は明るく答える。「本部長は、いくつもの交渉を行ってきた経験があるんだから。それとも、美咲先輩の計算モデルが監査法人から否定されるって考えているとか?」

「そんなこと、考えるわけないだろ」誠人は強い語気で返答した。その声には、これまで隠していた感情が滲んでいる。

「変な小細工で、霧坂の計算モデルを台無しにしたくないんだ」

「それ、告白か?」

黒嶺が茶化すと、誠人は顔を赤らめながら会議室を飛び出していった。その背中には、言葉にならない想いが刻まれているようだった。黒嶺と沙織からニヤニヤした視線を向けられ、美咲は小さく首をかしげて「さあね」のポーズをした。その仕草には、少し照れながらも、心の奥で何かを感じ取っている様子が窺えた。

メンバーたちが退室していく中、美咲は一人窓際に残った。彼女の心の中で、リース負債の計算式と同じくらい複雑な感情が入り交じっていた。空を見上げると、まだ見ぬ英国の空と、今この瞬間の東京の空が、重なり合っている。そこには答えのない問いが浮かんでいた。

彼女は深く息を吐き出す。数字には必ず答えがある。しかし、人の心は違う。特に自分の心は。美咲は窓に映る自分の姿を見つめた。その瞳には、決断を迫られる者の迷いと覚悟が混在していた。

 

(第12話「誤解の連鎖」へ続く)

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