Accounting

『リースの数だけ駆け抜けて』第14話「最後の準備」

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2025年6月30日の夕刻。梅雨明け間近の空が、不安定な光を投げかけていた。東京の高層ビル群が夕陽を反射し、オレンジ色に染まる景色を、霧坂美咲は会議室の窓から見つめていた。彼女の横顔が、その光に照らされて柔らかな輪郭を描いている。新リース導入プロジェクトのメンバーたちが、明日の監査法人との協議に向けて最後の準備を進めていた。

「リース会計で専門家って、何を指すんだ?」

突然、夜島誠人が呟いた。その声には、いつもの軽さはなかった。水ノ原監査役の言葉が、まだ頭から離れない。誠人は無意識のうちに、手元のペンを回転させていた。

黒嶺尚吾は軽くため息をつく。その眼鏡の奥の瞳には、小さな諦めが浮かんでいた。

「本部長が話していた『旬刊経理情報』の記事に、まだ目を通していないのか。せっかく少しは成長してきたと思っていたんだが…」

「ああ、あれ…ね」誠人は視線を泳がせながら、霧坂美咲に助けを求めた。

美咲は窓際から振り返った。彼女の瞳は、自分よりも誠人の方が深く困っていることを理解していた。その様子に、微かな優しさを感じて、彼女は応じることにした。

「ほら、『英国KAM事例分析から学ぶ新リース会計基準移行の留意点』という記事のこと」その声には、いつもの冷静さが戻っていた。

「カム?」

「Key Audit Mattersの頭文字」陽野沙織が明るく補足する。「日本語だと、『監査上の主要な検討事項』だから」

沙織の声には、いつもの軽やかさがあった。どんな状況でも、彼女は場の空気を和らげる特技を持っていた。

美咲はホワイトボードに向かった。マーカーが静かに滑っていく。彼女の手の動きには無駄がない。誠人はその動きを、思わず見つめていた。

「一番多かったのは、財務や評価の専門家」彼女は説明を始めた。「リース負債を現在価値で評価する際の割引率。原則は貸手の計算利子率だけど、グループ企業内のリース以外で、それを知ることは難しくて…」

誠人は首を傾げた。「じゃあ、どうするの?」

「そこで使うのが『追加借入利子率』。借手の追加借入に適用されると合理的に見積られる利率です」

「それを監査するのに専門家が必要なの?」

誠人の素朴な質問に、美咲は優しく微笑んだ。柔らかな夕陽が彼女の笑顔を照らす。誠人は思わず見とれてしまった。

「この割引率一つで、負債の計上額も財務比率も変わってくる。だからこそ、慎重な判断が求められるんです」

黒嶺が話に加わる。その声は冷静で、会議室の静かな空気に溶け込んでいった。「他にも専門家がいたよな」

「はい」美咲は頷いた。「興味深かったのは『モデリングの専門家』という存在ですね」

「モデリング?」また誠人の表情が曇る。彼の困惑は顔全体に表れ、それが会議室の空気を微妙に変えた。

「ハテナマークが10個浮かんでる~」沙織の茶目っ気に、会議室に小さな笑いが漂う。美咲も思わず微笑んだ。そんな彼女の笑顔に、誠人は少し安心した。

「私も初めて聞きました」美咲は率直に認めた。彼女のそういう正直さが、誠人は好きだった。

「KAMの記載からは、リースの計算が正確かを確認する専門家のようです。でも、専門家を使わず、監査法人独自のツールで対応したケースもありましたね」

「へえ、霧坂の計算モデルみたいなもの?」

「そ、そんな…」美咲は慌てて否定したが、その声には確かな自信も混じっていた。彼女は謙虚な人だが、自分の仕事には絶対の自信を持っていることを、誠人は知っていた。

黒嶺が静かに口を開いた。「いや、霧坂の計算モデルはかなり凄いと思うぞ」

「もう、やめてください」

美咲の声が上ずる。そんな彼女の表情を、誠人は密かに愛おしく感じていた。彼女が照れる姿を見るのは珍しく、それだけに特別だった。

その瞬間、氷倉隆が会議室に入ってきた。彼の存在感が部屋の空気を一変させた。

「なんだか、にぎやかだな。何の話だ?」

「水ノ原監査役がおっしゃっていた『専門家』の話です」

美咲は話題を切り替えるように即答した。彼女の声には、プロフェッショナルとしての自覚が戻っていた。

氷倉はホワイトボードの文字を眺めながら言葉を紡いだ。「評価の専門家に、モデリングの専門家か」彼は一瞬目を閉じる。「監査法人がこうした専門家を使わなければならないほどの専門性なら、会社側も…」

「本部長、そんな経験が?」黒嶺の問いに、氷倉は懐かしそうに微笑んだ。その表情は、普段の厳しさとは違う、人間味のあるものだった。

「随分と前の話だがね。固定資産の減損で、やはり割引率が論点になってな」

しかし、その表情はすぐに引き締まる。これまでの穏やかな空気が、一瞬で緊張感に満ちたものへと変わった。

「それより、明日は7月1日だ。いよいよ監査法人との協議が行われる。流崎取締役を通して、事前に資料を共有するよう依頼されている。前日になってしまったが、今日中に共有しておいてくれないか。頼むぞ」

氷倉は足早に会議室を後にした。その背中を見送りながら、沙織は「頼まれたぞ~」とおどけながら連呼した。

「そうだ」黒嶺が沙織に向き直る。「銀座店の事前説明書、用意できているよな?」

「もちろんです。担当の課長からPDFを取り寄せて、共有フォルダにアップ済みです」

「なら、良かった」

黒嶺の声に安堵が混じる。しかし、誰も気づいていなかった。そのPDFファイルには、パスワードがかかっているということに。

会議室の空気が、知らぬ間に危険を孕んでいた。夕暮れの光が窓から差し込み、会議室の影を少しずつ濃くしていく。それは明日に向けた不安を、静かに象徴しているかのようだった。

美咲は無意識のうちに、間近の退職日を思い浮かべていた。最後の仕事を、きちんと終えられるのだろうか。そして、誠人への想い─。まだ言葉にできないままの気持ちが、彼女の心の中で揺れていた。

 

(第15話「誤解の夜」へ続く)

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