Accounting

『リースの数だけ駆け抜けて』第19話「守るべきもの」

(記事にはプロモーションが含まれることがあります。) 

2025年7月1日15時16分。会議室の空気は、限界点まで押し詰められていた。窓から差し込む夏の陽光が、テーブルの上の資料に鋭い光を投げかけ、その影を床に落としている。新リース導入プロジェクトは、想定を超えた最悪の事態に陥っていた。

監査法人の現場主任、音宮和馬の声が冷たく響く。

「一般的な重要性の適用など、論外です」

その声には確固たる自信があった。彼は証拠不足という事実を、自分の正当性を証明するものとして扱っていた。

スクリーン上では、美咲が残した計算モデルが映し出されている。リース料の判定から資産計上の調整項目まで、彼女の緻密な思考が組み込まれた40以上の計算要素。夜島誠人はその画面を見つめながら、胸に重い痛みを感じていた。

その時、黒嶺尚吾のスマートフォンが震えた。会議室の静寂を破る小さな音に、全員の視線が一瞬だけ黒嶺に集中した。チャットアプリからの通知音が、張り詰めた空気を切り裂く。黒嶺の表情が一瞬だけ明るくなった。

『あった! 今から写真を送ります』

外部倉庫に向かっていた陽野沙織からのメッセージだった。添付された画像には、銀座店の『更新がない』ことの事前説明書が写っている。その鮮明な画像を見た黒嶺の目に、安堵の色が浮かんだ。

黒嶺は即座にそれをスクリーンに投影した。会議室に一瞬の静寂が訪れる。誰もが、今何が起こったのか理解しようとしていた。

「お待たせしました。こちらです」

黒嶺の声には、久しぶりの自信が宿っていた。

スクリーンに映し出された事前説明書を見て、音宮は一瞬、表情を強張らせた。彼の目が、わずかに見開かれる。専門家としてのプライドが揺らいだ瞬間だった。

「ああ、あったんですね。では、定期建物賃貸借契約ということで理解しました」

その声には、心なしか悔しさが滲んでいた。しかし、すぐに付け加える。

「ただし、他の案件も同様の状況があるかもしれません。一度持ち帰って、すべての案件を検討します」

氷倉隆の自信が戻る。「では、一般的な重要性の適用も、この方向で──」

「それは別の話です」

音宮の声が、鋭く切り込んだ。彼は敗北を認めたくなかった。自分の専門性を守るために、別の角度から攻勢に出る。

「見積りの監査では、三つの観点があります。手法、仮定、データ。今持ち帰ると言ったのは、データの話です」

「では、他の二点は?」氷倉の問いに、音宮は淡々と返す。

「仮定については、冒頭のスライドの内容ですね。延長オプションや解約オプションの判断方針、経済的インセンティブの評価方法など。これらには大きな問題は感じませんが、持ち帰って検討します」

夜島誠人は内心で反発していた。持ち帰りばかりじゃないか──。

「むしろ問題は手法です」音宮の視線が、スクリーンに映る表計算ソフトに向けられる。「霧坂さんが作られたものですよね」

「はい、そうです」氷倉が返答する。

「しかし」音宮の声が冷たさを増す。「その霧坂さんは、昨日まで在籍されていた。私も決算時にご挨拶を受けました」

「それが何か?」黒嶺の声に、わずかな苛立ちが混じる。

「大きな問題です」音宮は断言した。「返還されない保証金の処理、建物附属設備の耐用年数、各種の計算式。これら複雑な調整を組み込んだモデルを、誰がメンテナンスするのですか?」

誠人の胸が熱くなった。音宮が美咲の計算モデルを否定しているように感じられたからだ。彼女が注いだ時間と努力、その全てが無駄になりかねない。

「霧坂の作ったものに、ケチをつけるのか?」

誠人の声が、突如として響き渡った。彼自身も驚くほどの大きな声だった。氷倉が制止しようと腕を掴むが、その手の力は強くはない。氷倉も同じ思いだったからだ。

「ケチではありません」音宮は冷静に返す。「新基準適用時に使えないモデルで、何を議論するというのですか」

「俺が説明する」

誠人の言葉に、音宮は冷ややかな目を向けた。その視線には「素人に何ができる」という侮りが込められていた。

「あなたは経理でもないのに。追加借入利子率の設定は? リース負債の見直しは? 注記の文言は?」音宮の声が冷たくなる。「だから専門のソフトウェアが必要なんです」

「ふざけるな!」

誠人の両手が、机を叩く音が響いた。会議室の空気が一変する。誰もが驚きながら誠人を見つめた。

「『借手のリース期間』の判断から、『経済的インセンティブ』の評価、使用権資産の調整項目まで。俺は、あいつの横で全部見てきた。すべての項目を説明できる!」

そして立ち上がり、叫んだ。

「俺が全部、更新してやるーー!」

その声には、美咲への想いが込められていた。彼女の残した計算モデルを守り抜くという決意と共に。それは誠人自身が、自分の欠点を認め、変わろうとする意志の表明でもあった。かつての「浅はかマン」ではなく、責任を持って仕事に取り組む男としての宣言だった。

音宮は椅子から転げ落ちそうになった。黒嶺が慌てて支え、氷倉は筆頭サイナーの暁原に謝罪の言葉を述べている。しかし二人とも、誠人の成長を見守るような、温かな眼差しを向けていた。

日はすっかり傾いていた。技術的な検討は後日に持ち越されたが、誠人の胸の中で、大切なものを守るという想いが、確かな形を得ていた。それは、美咲が築き上げた財務モデルと、彼女への想い。両方を含んだ、揺るぎない決意だった。

プロジェクターに映る複雑な計算式の群れは、まるで美咲からの最後のメッセージのように、静かに光を放っていた。それは「守るべきもの」の存在を、彼に教えてくれていた。

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