学生の頃、最も苦手だったのは、読書感想文。当時、あんなものをスラスラ書ける人が信じられませんでした。なんだか、綺麗にまとめちゃって、ね。アノ手の、良い子ちゃんぶった文章が、だいっ嫌いでした。
自分のことを振り返ると、決して本を読むのはキライなほうじゃない。ただ、課題図書が面白く感じないのです。文学史に載っている内容がカタいものだったり、文語調で読みにくいものだったりと。
そもそも、心を動かすような感想を書かせたいのなら、なぜ学生に自由に本を選ばせないのかが不思議。嫌々読ませたところで、感情は生まれません。そんな状態で、国語教師が期待しているような文章が書けると本気で思っているのでしょうか。
また、何か意図があっての選書であるのなら、それをあらかじめ伝えることをしないのが不思議。目指すべきゴールを共有していない状態で、期待する効果が得られないのは当たり前。むしろ、期待する効果が得られることのほうが奇跡。
最近、流行った意味での「忖度」を学ばせる授業ならそれもアリかもしれませんが、それであっても忖度の仕方を教えないでダメだとレッテルを貼る、つまりは採点や評価をするなんて尋常じゃない。それなのに、期待していた内容と違うと非難されても、知ったこっちゃない。
ボクはビジネスの場で、セミナーの講師やワークショップ型のセミナーのファシリテーターを務めています。そのときに、何もやり方を教えずにやらせて、できないからダメだと評価するなんて、ア・リ・エ・ナ・イ。クレームが殺到するのは必至。にもかかわらず、一部の国語教師は、子どもたちにそんな態度を平然と示しているのです。
文章には、大きく小説のような味わう文章と、ビジネスで使うような意図を的確に伝える文章があります。意図を的確に伝える文章を書くには、一定の作法があります。例えば、アメリカでは、そんなライティングの方法を学生時代に徹底的に教え込むと聞きます。論文を執筆するために、記載内容の順番や段落のまとめ方などが確立されているのです。
しかし、日本では、何ら方法論を教えることなく、いきなり学生に文章を書かせて、一部の教師はそれをただ批評するだけ。しかも、そういう教師に限って、「感覚」だけで批評します。まあ、方法論を持っていないから仕方ありませんがね。
いくら英語と日本語とで言語の違いがあるとはいえ、日本語にもライティングの方法論はあります。事実、ビジネス書では、ライティングのノウハウが充実しています。教科書よりも、そんな教師が教えるよりも、再現性のある形で提供されています。
文章が書けるように子どもたちを指導するのが、国語教師の努めのはず。ビジネスの世界では、セミナーや研修の講師はそれを指導できています。そうしたライティングのスキルを教えることなくブーブー文句を言うだけなら、教師ではなく批評家。そういうと、批評家の方に失礼ですね。言いたいのは、仕事をしていないのに等しいってこと。
小学生の頃からライティングのスキルを学ぶ機会があれば、この社会は今以上にメッセージが届きやすくなります。それは、価値が生まれやすくなり、また、それを広められやすくなることを意味します。もっと文章を子どもたちの手に取り戻したい。
あの教師たちが目覚めないのなら、ボクらが立ち上がるしかない。この記事を書きながら、そんな想いが強まってきました。あの頃のボクのように、読書感想文がだいっ嫌いに感じている子どもたちのために。
P.S.
ボクにできることは、まずは、ライティングの良書を伝えることかと。著者はもともと予備校講師とのこと。スキルを身につけさせるという意味では、予備校の講師のほうが、あの教師たちよりも、子どもたちの役に立っていますね。
・吉岡友治『シカゴ・スタイルに学ぶ論理的に考え、書く技術: 世界で通用する20の普遍的メソッド』