今日は、とある団体が主催したシンポジウムに参加してきました。内容的には問題ありません。しかし、気になったのが「ファシリテーター」という呼称の使い方。
◎ こんなシンポジウムはいやだ
そのシンポジウムでは、2時間のうち、ほぼパネルディスカッションに時間を充てています。そのパネルディスカッションの討論に加わる人のことを、「ディスカッサント」と呼んでいました。
その言葉をGoogleで検索してもヒット件数が約16,000件。あまり普及していない模様。
一方で、その仕切り役を「ファシリテーター」と呼んでいました。Google検索では、約3,860,000件がヒット。ディスカッサントの241倍の件数のため、相対的に知名度が高い。
で、そのパネルディスカッションで、ファシリテーターと称される人が何をしていたか。それは、テーマをいきなりディスカッサントに振って、それに関連した話を要求するという進行ぶり。いやいや、それは単なる司会者ですから。
◎ 問題の所在
もっとも、ファシリテーターと称された人には、何の悪意もない。おそらくは、その団体が司会者のことをファシリテーターだと勘違いして、案内文書に記載したのが問題。
推測の域を出ませんが、劇場型で場を仕切るのを、どうやら「ファシリテーター」と勘違いしたのかも。そう、テレビ朝日系列の「朝まで生テレビ!」の司会者を務めている田原総一朗サンのように。
ファシリテーターとは、促進する人のこと。元々は学習や教育のプログラムで、参加者を成長させるように進行していきます。参加者の変容を促すことが役割なんです。
◎ ファシリテーターと司会者とはここが違う
だから、単なる司会者に対して「ファシリテーター」と呼ぶことに、どうもピンとこない。司会をファシリテーターと呼ぶのは違うと感じています。司会じゃないんです、ファシリテーターって。
一番の違いは、ファシリテーターは基本的に意見を言わない。自分の意見でその場の流れに介入しないのです。ファシリテーターが参加者に発言を促すことはあっても、参加者と激しく議論することはないのです。
もっとも、司会者と混同されているのは、ファシリテーターという言葉が適切に認知されていないから。だからこそ、司会者の「今風の呼び方」のように勘違いされてしまっているのです。
◎ 「ファシリテーター」が認知されていない理由
では、なぜファシリテーターが適切に認知されていないか。それは、本当のファシリテーションに出会っていないから。一度でも本当のファシリテーションに出会ったなら、そういう場を創り出せるファシリテーターに出会ったなら、きっと司会者とは違うと感じるハズ。
ボクがファシリテーターを務めるワークショップ型のセミナーに参加されている方々からは、こんなコメントを頂きます。
- 「今まで受けた研修とは違う」
- 「こんなに話せたのは初めて」
- 「同じグループの人のことをよく理解できた」
こうしたコメントからわかるのは、参加者が主役であること。どのコメントも、ファシリテーターではなく、参加者のほうに視点があります。そのように視点がシフトしているのは、参加者が発言しやすい場を作り出しているため。
ファシリテーターは出しゃばらず、意見も言わず、主役にもならないのです。ね、参加者の変容を促す役割だと言っているじゃない。ファシリテーターが司会者だと誤解しているだけならいいけど、本気でそう思っているなら悲しすぎます。
もっと、「ファシリテーター」や「ファシリテーション」の言葉の意味を体感してもらわないと、この状況は解決しない。ちょうど今、オープン参加のワークショップ・セミナーを企画しているところなので、具体化に向けて頑張ろうっと。
P.S.
ボクは、神田昌典サンの『都合のいい読書術』(PHP研究所)で紹介されている「リード・フォー・アクション読書会」の認定ファシリテーターです。この本を読むだけでも、ファシリテーターの意味がつかめますよ。