今日は、二日酔いっぽいため、午前中に予定していた作業は、午後に繰り越すことにしました。その代わりに取り組んだのが、研修アンケートのチェック。先日、所属している組織で、ボクが講師となった研修のもの。
その中には、ネガティブなコメントが1つ、ありました。ボクとしては、「きっと、あるだろうな」と想定していた内容。それは、「資料を配布してくれ」という要望です。なんでも、小さな文字が見えなかったとのこと。
いやいやいや、何を言っているのですか。そもそも、前に座ればよいでしょ。ガラガラに空いている前に座ることなく、見えないと言ってくる。
面白いことに、前に座っていない人に限って、文字が見えないとアンケートに記入してきます。前が埋まっているならまだしも、後ろから埋まっているために最前列に移動することだってできます。それなのに、「文字が見えない」「資料を配れ」と言う。
ちなみに、その研修では、スライド資料は配布せずに、映写するだけで進行していました。なぜなら、研修の一部がワークショップ形式を採っていたため。内容の構成上、先にスライドの内容を見てしまうと、面白みがなくなってしまうからです。
もちろん、フォントサイズは比較的大きくするように配慮しています。一部、別資料(といってもボクが作ったもの)から転載したものには、相対的に小さなサイズの文字もあります。でも、それは話を聞いていれば理解できるもの。
こんなコメントをしてくるのは、その受講者に「研修とは資料が配れるものだ」という強い固定観念があるため。義務教育のイメージが残っているのか、教科書が用意されているのを前提としているのです。
でも、そんな学習スタイルでは、何も学べません。ビジネス系のセミナーでは、スライドを配布しないものも少なくない。また、対談のような場では、話す内容が細かく記載された資料なんて配布される訳がないため、何も学べないことになります。
このように、研修資料がない、テキストがない、というコメントは、学ぶ姿勢ができていないことを露呈してしまっているのです。自身が思い込んでいる学習の環境を誰かが用意してくれなければ、学ぶことができない。こんな学びの姿勢って、めちゃくちゃ不自由じゃありませんか。
では、なぜ、研修資料を求めるような姿勢になっているのか。それは、この世には絶対唯一の答えがあると思い込んでいるため。それさえ覚えれば、世の中を渡っていけると信じている。確かに、義務教育では覚えることが多かったのかもしれません。
しかし、今や、義務教育を過ぎた、社会人の学び。ビジネスでは、何が正解かなんて分かる訳がない。複数ある選択肢の中から適切なものを選択していくなんて悠長なことは言っていられない。
かのドラッカーも、ビジネスとは不確実な未来に賭けることだ、という旨の発言も残しています。限られた時間と限られたリソースの中で、こうすると決断し、それを決行していかなければならないのです。
突き詰めると、そんなコメントをする受講者って、正解がある幻想を抱いているだけ。言われたとおりにやるから、それを教えてくれという姿勢になっているのです。
その幻想を捨てれば、講師が話したこと以外の方が大事だと理解できます。講師から絶対唯一の正解が聞けない以上、聞いた話からヒントを掴むしかない。ときには、ヒントどころか、ひらめきにもなる。なので、講師が話した内容よりも、その内容から自身が何を考えたのか、他の何と繋がったのか、何を思いついたのか、そっちのほうが大事なんです。
そんな学びの姿勢ができると、まったく違うテーマの研修やセミナーからでも、自身のヒントが得られるようになります。あるいは、全く関係のない内容の本からでも、ひらめきを生み出すことができるのです。すごく自由な学びの姿勢でしょ。
ところで、研修アンケートには、資料の読み方に対する意識が変わったというコメントもありました。その研修では、ある資料を読み解くための姿勢を説明したうえで、実際に読み解いていくことを行ったからです。
受講者の中には、学びの姿勢ができていない人もいれば、こうして学びの姿勢まで理解した人もいます。反対の立場の人が同じ空間にいるのが組織の面白い。あなたは、どちらに立っていますか。