Accounting

その後発事象の注記に、取締役会の決議日はいりません

(記事にはプロモーションが含まれることがあります。) 

五月の陽射しが経理部のブラインドを透かして差し込む午後、香発仁(こうはつ じん)は端末の画面を睨みつけていた。計算書類の下書きが、カーソルの点滅とともに、彼の焦りを刻む。

「後発事象の注記か…」

声に出した言葉が、静まり返った経理部に空しく響く。入社五年目にして初めての主担当。その矢先の難題に、香発は眉間にしわを寄せた。隣の席で黙々と作業を続ける新人の姿が、かつての自分を思い出させる。

製造業界の経理パーソンとして、彼はこれまでも様々な会計上の課題と向き合ってきた。売上の期間帰属、棚卸資産の評価、固定資産の減損…。どれも先輩たちの指導のおかげで、なんとか乗り越えてきた。しかし、今回ばかりは違った。

それは一週間前、監査法人からの講評の最後に起きた出来事だった。

「ところで」と、監原巧人(かんばら たくと)が言った。「取締役会の議事録を閲覧したところ、開示後発事象として注記が必要な事象がありました」

その一言で、会議室の空気が一変した。監原は大手監査法人のシニアマネージャーで、香発の会社の監査チームで主任を務める男だ。氷のような瞳の奥に、常に計算が渦巻いているような男。若くしてパートナー候補と噂される敏腕会計士だった。

その目は今、香発を見つめていた。まるで、何かを試すように。

「四月の取締役会決議に関する事象について、早急に注記文案を作成願います」

その夜、香発は残業を決め込んだ。金融商品取引法、会社法、企業会計基準…。関連しそうな規定を片っ端から読み漁った。だが、明確な指針は見つからない。いくつかの規定が後発事象の開示を求めているものの、具体的な記載方法については触れられていなかった。

そこで香発は、EDINETで過去の開示事例を徹底的に調べ上げることにした。業界も規模も様々な二十件以上の注記事例を収集し、一つ一つ丁寧に分析した。すると、ある「法則」が浮かび上がってきた。

ほとんどのケースで、「取締役会の決議日」が明記されていたのだ。

――なるほど。意思決定の時点が明示されれば、投資家は判断しやすい。

香発は確信を持って、自身の文案に取締役会の決議日を記載した。これなら間違いない。他社の開示実務に倣った形式的な正確さ。それこそが、プロフェッショナルとしての責任の果たし方だと信じていた。

翌朝、監原から電話があった。

「文案を拝見しました」

いつもの冷静な声。しかし、次の言葉は予想外のものだった。

「このケースでは、取締役会の決議日は記載しなくても問題ありません」

監原の言葉は、まるで氷の刃のように香発の確信を両断した。

「むしろ、開示内容の純度を高めるなら、ノイズになりかねません」

その瞬間、香発は違和感を覚えた。いつもの監原らしからぬ、やわらかな口調。まるで、後輩を導く先輩のような。そして、その言葉の中に隠された何か。

「監原さん」香発は、震える声を必死に抑えながら続けた。「どういう意味でしょうか? 他社事例を見ても、取締役会の決議日は必ず記載されているケースが多いのですが……」

監原は電話口で、わずかに間を置いた。

「香発さん、あなたは何のために後発事象を開示すると思いますか?」

「それは…」香発は言葉を選びながら答えた。「投資家に対して、将来の影響を予測するための情報を提供するためです」

「ではなぜ、取締役会の決議日が必要だと考えたのですか?」

その問いが、香発の意識を揺さぶった。急いで端末の画面を開き、集めた資料を再度確認する。一枚、また一枚と。

そして、彼は凍りついた。

自分が調べた事例は全て、後発事象の対象期間に取締役会の意思決定しか発生していなかった。純粋な意思決定事項だけの後発事象。しかし、今回は決定的に違う。取締役会の決議だけではなく、その後に実際の事象も発生している。

「つまり…」

香発は、自分の声が遠くから聞こえてくるような気がした。

「事象がすでに発生している以上、決議日は記載しても意味がない。むしろ、投資家の判断を誤らせる可能性すらある」

電話の向こうで、監原が小さく息を吐く音が聞こえた。

「正確です」

その声には、初めて聞くような温かみがあった。

「後発事象の開示は、投資家の判断に影響を与える重要な情報を提供することが目的です。不要な情報は、かえって本質を見えづらくしてしまう。これが開示の真髄です」

その瞬間、香発の中で何かが変わった。開示とは、単なる事実の列挙ではない。それは、投資家との静かな対話。表面的な形式に囚われず、本質を見極める。その深い理解こそが、真のプロフェッショナルへの第一歩だった。

電話を置き、キャビネットの引き出しを閉めながら、香発は微笑んだ。明日からの決算作業が、少し楽しみになっていた。

そして彼は気付いていなかった。この経験が、後の大きな危機で、思いもよらない形で役立つことになるとは。

 * * *

こんな光景が思い浮かぶようなコラム『後発事象の注記における「取締役会の決議日」の要否』を寄稿しました。株式会社プロネクサスの会員制サイト「PRONEXUS SUPPORT」に掲載されています。

記事の冒頭にはとてもクールな画像が使われているため、このビジュアルが目に入れば、自然と記事に引き込まれるのではないでしょうか。また、本稿では、他ではあまり見られない解説を行っているため、実務に直結した内容になっています。

さらに、プロネクサスさんのメルマガでも「編集部のイチオシ」として紹介していただきました。ぜひ、ご覧ください。

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