Accounting

『リースの数だけ駆け抜けて』第7話「海外の知恵」

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2025年2月中旬の午後、氷雨が会議室の窓を打ちつけていた。霧坂美咲は、手元の資料に目を落としながら、時折窓の外を見やる。そこには冬の冷たい風に揺れる枝が、彼女の心のように不安定に揺れていた。まだ見ぬ英国への旅立ちと、このプロジェクトの完遂。二つの思いが、心の中で綱引きを続けている。

「進捗を聞かせてくれ」

氷倉隆の声が静かに響く。管理本部長の低く落ち着いた声は、柔らかでありながら、確固たる権威を感じさせる。その存在感は、誰もが認めざるを得ないものだった。

「リース負債の算定に必要なインプット情報の整理は概ね完了したと思います」

美咲はノートパソコンに表示された資料を確認しながら、わずかに眉を寄せる。「ただ、まだ不動産賃貸借契約が70件以上残っていて…」

「遅れの要因は?」

氷倉の問いかけに、黒嶺尚吾が即座に応じた。

「解約オプションの判断が難航しています」黒嶺の声は冷静だった。「中途解約条項のある契約が多いので、その評価で議論が分かれています」

氷倉はその言葉を聞くと、まるで待っていたかのように、自身のノートパソコンのキーを叩いた。スクリーンには海外企業の財務諸表が映し出される。

「これは、あるアパレルメーカーのリース関連の注記だ」

夜島誠人は英文を見て眉をひそめた。複雑な専門用語の羅列に、彼の表情が曇る。しかし陽野沙織は、日本語を読むように、すらすらと訳し始めた。

「業績変動を考慮して解約オプションを設定しているけれど、リースの開始時点で行使が想定されないため加味しない―」

「中途解約条項があるのに、適用しないってこと?」誠人の素直な疑問に、黒嶺が穏やかに頷いた。

「小売業では、業績の変動に備えて中途解約条項を設けることが多い。しかし」黒嶺は一呼吸置いた。「それは財務リスクの軽減策であって、契約当初からその行使を想定していないだろ。だったら、『合理的に確実』とみなす必要はない」

美咲の瞳に、理解の光が宿った。「それなら、私たちも同じ判断基準を…」

しかし彼女の表情には、まだ迷いが残っていた。少し躊躇いながら、彼女は続けた。「もうひとつ問題があるんです。延長オプションの評価です」彼女の視線は真っ直ぐ氷倉に向けられる。「どこまでリース期間を延ばすと判断すべきか…」

氷倉は再びスクリーンを切り替えた。「今度は、食品・衣料品販売企業の財務諸表だ」

誠人は沙織に向かって両手を合わせた。それは彼なりの愛嬌のある頼み方だった。「訳してくれ」

沙織は軽くため息をつきながらも、微笑みを浮かべて英文に目を走らせた。「現在の店舗の営業状況、設備投資の計画、資産の耐用年数を総合的に考慮…」

「なるほど」黒嶺が頷く。「店舗資産の耐用年数が到来すれば、大規模改修が必要になる。そのコストをかけてまで賃借期間を延長するかどうか―」

「それって、店舗開発室の議論そのものだ」誠人の声には、新たな発見の喜びが混じっていた。

「そういうことだ」氷倉は淡々と答えた。彼の穏やかな表情の奥に、長年のビジネス経験からくる確信が窺えた。「この方針で進めていいんじゃないか?」

黒嶺が即座に賛成した。「それにしても、なぜ、こんな海外情報を知っているのですか?」と氷倉の情報収集力に関心を向けた。

「実はな…」と氷倉は打ち明ける。その声には、少しだけ誇らしさが混じっていた。「昨年の年末にセミナーを受けたんだ。『《不動産賃貸借に焦点を当てた》新リース会計基準の解説 ~負債の計上がカギ! 新リース会計基準を深く理解するための第一歩~』というセミナーをな。いろいろと有益な情報が提供されていたから役立っているよ」

そんな話題で盛り上がっている中、美咲が話しだした。「これらの方針に問題はないと思います。ただ、監査法人の見解が気になって…」

彼女の言葉に、かすかな不安が滲んでいた。

「気になって当然だ」氷倉は静かに答えた。「だが、まずはプロジェクトとしての方向性を決めることが重要だ。監査法人とはその後で調整すればいい」

美咲は静かに息をついた。方向性が定まり、プロジェクトは確実に前に進んでいる。しかし、その一方で、自分が日本を去る日も刻々と近づいていた。そのことを考えると、胸の奥に小さな痛みを感じた。

氷倉は結論を出した。「それじゃあ、今の方針で進めてくれ」彼の言葉には、議論の終結を告げる重みがあった。

会議室の空気が少し緩んだ。メンバーたちの肩から緊張が解けていくのが見て取れた。美咲は、誠人の方をちらりと見た。彼もまた、何かを思案していた。その瞳に浮かぶ感情は、単なる仕事の達成感だけではなかった。

冬の風はまだ冷たかったが、確かに春は近づいていた。美咲は窓辺に立ち、自分の影が薄く映る硝子越しに外を見た。雲の切れ間から、一筋の光が差し込む。それは彼女に、春の訪れと同時に、何かの終わりも近づいていることを静かに告げていた。

(第8話「空回りの情熱」へ続く)

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