Accounting

『リースの数だけ駆け抜けて』第8話「空回りの情熱」

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2025年2月下旬の午後、霧坂美咲は会議室の窓辺に立ち、淡い冬の日差しを眺めていた。新リース導入プロジェクトの定例会議が始まろうとしていたが、いつもの四人目が見当たらない。

「夜島はどうした?」黒嶺尚吾の声に、美咲は首を傾げた。その仕草には、どこか気がかりな様子が混じっていた。

会議室のドアが勢いよく開き、夜島誠人が息を切らせて飛び込んでくる。彼の目は何かを発見した興奮で輝いていた。

「おい、売上歩合の賃料は難関だぞ!」

唐突な発言に、一瞬の静寂が訪れる。美咲は思わず目を見開いた。

「何をそんなに慌ててるの?」美咲の問いかけに、誠人は息を整えながら答えた。

「昨日、新宿店の契約を検討してたら、売上歩合賃料の扱いが分からなくなって…」彼の声には焦りが混じっていた。「いろいろ計算してみたけど、どうにも腑に落ちなくて」

黒嶺は腕を組み、ため息をついた。その表情には、若手への苛立ちと、どこか諦めにも似た感情が浮かんでいた。「基準をちゃんと読めよ。変動リース料が含まれるのは、指数やレートに応じて決まる場合だけだ」

「でも」誠人は眉をひそめる。「基準には『変動リース料も含む』って…」

その言葉を遮るように、美咲がホワイトボードに向かった。

「指数とかレートに応じて変動するリース料は、支払額が変わっても、支払義務までなくならないでしょ」彼女は優しく微笑んだ。「でも、歩合家賃なら…」ここで一呼吸置き、美咲は続けた。

「お店の営業を止めれば売上はゼロになる。すると、家賃も発生しません。そんな契約では将来のキャッシュ・アウトフローが拘束されているとは言えないから、歩合家賃は『借手のリース料』の対象外とするのが適当…、ですよね」

誠人の表情が明るくなった。「そうか。てことは、新宿店の賃料はリース負債に含めなくていいんだ」

しかし、美咲は残念そうに首を振った。「完全歩合の場合なら。でも、新宿店は最低賃料が固定で設定されているでしょ。その部分は確実に発生するから、『借手のリース料』に含めないと」

「じゃあ」誠人の目が輝いた。「すべての契約を完全歩合に切り替えよう。そうすれば面倒なリースの検討をしなくても済むだろ」彼の声には、何かを見つけた子どものような興奮が混じっていた。

「あのな」黒嶺は深いため息をついた。「それじゃ貸手にリスクを押し付けているだけだ。そんな交渉、貸手が受け入れると思うか?」

「なら…」誠人は諦めずに続けた。「契約は完全歩合にして、最低賃料分は別契約で広告費として支払うのは?」

「はあ?」黒嶺は頭を抱えた。「それだと、会社からの支出が増えるだけだろ。新リース対応で採算を悪化させてどうする」

「浅はか~」陽野沙織の声には優しい冗談めかしさが含まれていた。その言葉は、会議室の緊張感を和らげた。

「じゃあ、短期リースは?」誠人は最後の望みをかけて言った。「1年の定期契約にすれば、オフバランスにできるじゃない?」

黒嶺が即座に否定する。「『更新』と『再契約』を混同してないか? 定期建物賃貸借契約は更新できないだぞ」

「でも、現実には利用を続けている場合もあるんじゃ…」

「それは『再契約』だ」黒嶺は断言した。「再契約は新たな契約だから、貸手と借手の合意が前提だ。もちろん、定期契約の再契約の締結には、公正証書等による書面作成などの法定要件を改めて満たす必要がある」

美咲は静かにフォローを入れた。「更新なら、現在の契約が続いているでしょ。でも、再契約は新しい契約だから、そんな将来の事象まで今の財務諸表に反映することはできなくて…」

誠人は不満げに口を尖らせた。「なんだよ、せっかく楽できると思ったのに…」

沙織が誠人の肩を軽く叩いた。「肉まん食べてる『浅はかマン』!」しかし、美咲は彼の一生懸命さの裏に、何か別の思いが隠れているのを感じていた。

その瞬間、黒嶺が時計を見て声を上げた。「おっ、コンプライアンス研修が始まるぞ。急げ」

沙織も慌てて立ち上がった。「え、もうそんな時間?」

慌てていない美咲に誠人が不思議そうな目を向けると、彼女は静かに答えた。「私は先週受講したから。片付けは済ませるから、みんなは研修に行って」

三人が急いで部屋を出ていった後、美咲は一人でホワイトボードを消していた。彼女の心の中にある迷いも、同時に消せたらどんなに良いだろう。そこに氷倉隆が現れた。

「あれ、プロジェクトの会議、やってるんじゃないの?」

「他のメンバーは研修があるので」

氷倉は美咲の前に座ると、突然質問を投げかけた。「ところで、なぜ留学なんだ?」

その問いに、美咲は一瞬息を止めた。しかし、すぐに落ち着いた声で答える。「サステナビリティ開示と財務諸表のコネクティビティ…この波に、自分自身が追いついていかないと思ったんです」

「実務経験で何とかなるだろう」氷倉の言葉に、美咲は静かに首を振った。

「自分の中でロジックを持ちたいんです。闇雲な対応じゃなく、自信を持って『この開示なんだ』と言える…。そんな基盤を作りたくて」

「すごいな」氷倉は素直に感心の声を上げた。薄暮の光が会議室に差し込み、二人の影を床に長く伸ばしていた。「そう思うきっかけは何かあったの?」

美咲は少し遠い目をして、懐かしそうに語り始めた。

「実は、昔から気になっていたことがあって」彼女の声は静かだが、確かな想いを感じさせた。「まだ大学で簿記や会計の勉強をしていた頃、『P.S.バンブーブログEmpathy』というブログに出会ったんです。そこに、IFRSの発展をライフサイクルに当てはめた記事があって…」

「ライフサイクルって」氷倉は眉をひそめた。「あの、導入期、成長期、衰退期ってやつか? それをIFRSに? 随分とトンデモ話だな」

美咲は柔らかく微笑んだ。「そうなんです。ちょっと変わった記事なんですけど、IOSCOの承認をきっかけにIFRS会計基準が成長期に入ったと捉えると、2030年頃から衰退期に入るって分析をしていて…」

「それが?」氷倉の声には、興味と疑問が混じっていた。

美咲は窓の外に目をやりながら、思考を整理するように言葉を紡いだ。「最初は不思議な話をしているなあって思っていたんです」彼女の声が少し強くなる。「けど、ここ最近、サステナビリティ開示が急にクローズアップされて。それに、財務諸表にもコネクティビティという形で影響を与えていて…」

「だからって、衰退期に入るなんて話には結びつかないだろ」

「気候変動から考えると、決してトンデモ話でもないかなって」美咲の声には確信が滲んでいた。「パリ協定の中間目標が2030年です。今の状況では、世界中で達成が困難になりそうで」

彼女は一呼吸置いて続けた。

「すると、企業の行動を変えるために、サステナビリティ開示と財務諸表とが今以上に一体化するんじゃないかって。その結果、今までのようなIFRS会計基準じゃなくなるとすると、『衰退期』って話が自分の中で現実味を帯びてきたんです」

氷倉は腕を組んで考え込んだ。「う~ん、まだピンと来ていないけど…財務報告のあり方や方法が変わる話は十分にあり得るだろうな」

美咲は真っ直ぐに氷倉を見つめた。「ブログの話はきっかけにすぎなくて」彼女の声には強い決意が込められていた。「やっぱり、最近の開示を巡る動向をみていると、もう一度、しっかりと勉強したい気持ちが押さえきれなくなって。それで留学を決心したんです」

夕暮れの光が美咲の横顔を優しく照らしていた。その表情には、未来への期待と、現状に甘んじることを許さない強さが同居していた。

「この会社にとっては残念な話だけど」氷倉は静かに言った。「勉強が終わったら、また戻ってこいよな」

その思いがけない応援の言葉に、美咲の目が少し潤んだ。それは安堵の涙なのか、決意の涙なのか、あるいはその両方なのか。

「でも、その前に」氷倉は穏やかな口調で念を押した。「このプロジェクトはしっかりと頼むぞ」

彼が会議室を後にした後、美咲は一人でしばらくホワイトボードを見つめていた。そして、静かにマーカーを片付けながら、心の中でつぶやく。

(本当に、私の決断は間違っていないのかな…)

窓の外では、春の気配が少しずつ近づいていた。

 

(第9話「取締役会への道」へ続く)

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