2025年7月1日13時。監査法人との協議の場で、管理本部長の氷倉隆は、膨大な資料の束を前に立っていた。彼の表情には、日頃の冷静さとは異なる緊張が浮かんでいた。会議室の窓から見える青空は、創業記念日にふさわしい晴れやかさだったが、室内の空気は重く沈んでいた。
「今日は、我が社の新リース導入プロジェクトの検討結果についてご説明いたします」
その言葉が会議室に響いた瞬間、空気が変質した。まるで誰かが見えない蓋を開けたかのように、重い緊張感が室内に充満していく。夜島誠人は、その場の雰囲気に圧倒されながらも、別の思いで頭がいっぱいだった。霧坂美咲の突然の退職——昨日の夜、彼女が見た光景と、朝に残されていたメモ。誠人の胸には、説明できなかった誤解と後悔が渦巻いていた。
「合わせて、適用にあたっての『一般的な重要性』についてもご検討願えればと考えております」
「一般的な重要性、ですか」
監査法人の筆頭サイナー、暁原雅人の目が光った。その眼差しには、幾多の企業不正を見抜いてきた男の警戒心が宿っていた。誠人はその鋭い視線に、思わず身を固くする。
「それは、チャレンジングな議題ですね」
暁原は穏やかに言葉を選びながらも、突然の申し出に戸惑いを隠せない様子で、現場主任の音宮和馬を一瞥した。その視線には、「こういう展開は想定外だった」という無言のメッセージが込められていた。
「その妥当性を見極めるためには、まずプロジェクトの検討結果の適切性を判断しなければなりません。その観点も踏まえて、ご説明をお願いします」
「その点は承知しております」
氷倉はスクリーンに映し出された資料を指し示した。本来ならば、この場で霧坂美咲が説明するはずだった資料。その代わりに立つ氷倉の背後で、夜島誠人は苦しい表情を浮かべていた。
「ご承知のとおり、新リース会計基準の導入によって、これまでの実務との比較で最も重要な点は、『借手のリース期間』の決定です」
氷倉の説明は、美咲が残した資料に忠実に従っていた。彼女が何度も推敲を重ねた言葉が、今、別の人の口から語られている。その違和感に、誠人は胸が痛んだ。
「特に不動産賃貸借では、契約期間よりも長く設定される場合が想定されます。これは、我が社のように小売店舗を賃借して展開している企業にとって、財務的に大きなインパクトをもたらします」
画面が切り替わり、複雑な表計算ソフトが映し出された。50を超えるタイトル行が、まるで美咲の几帳面さを物語るように整然と並んでいる。それらを見つめる誠人の胸には、昨夜の出来事が重くのしかかっていた。
陽野沙織との誤解。驚きに見開かれた美咲の瞳。そして今朝、机上に残されていた一行のメモ。「ごめんなさい。今日付けで退職します」。その言葉の重みが、今も彼の心を押しつぶしそうになっていた。
「この計算には、どのような仮定を用いているのですか?」
音宮の鋭い質問に、氷倉は冷静に応じる。その態度からは長年のビジネス経験から来る自信が感じられた。会議室の窓から差し込む光が、彼の頬に深い陰影を作っていた。
「それは、この資料に沿って順に説明してまいります」
計算モデルの説明を終えると、氷倉は例の提案に進んだ。
「では、ここから一般的な重要性の適用についてご意見を頂戴できればと」
監査法人の一同は、明らかに身構えた。音宮はノートパソコンに前のめりになり、暁原は腕を組んで様子を窺う。その雰囲気は、会議室の温度をさらに下げたように感じられた。
「監査法人の皆様も、監査を通じて、我が社に不動産賃貸借契約が多いことをご存知のはずです」
氷倉の声が響く。その言葉には経験に裏打ちされた説得力があったが、その奥には焦りも隠れていた。誠人にはそれが感じられた。窓辺に立つ黒嶺尚吾の姿も、いつもより緊張して見えた。
「規模も違えば、使用目的も異なる中で、一律にオンバランスすることは、リソースに照らして合理的とはいえません」
音宮は、その主張に冷たく切り込んだ。彼の瞳には、氷倉の提案に対する懐疑の色が濃く宿っている。
「新リース会計基準には金額による簡便法が認められています。それでは駄目なのでしょうか?」
「確かに」と氷倉。「基準には少額リースの数値基準が示されています。しかし、不動産賃貸借契約となると、金額や期間に照らして、300万円を超えるのは必至です」
音宮の眉が寄る。その表情には「なぜそれに従わないのか」という疑問が浮かんでいた。
氷倉は説明を続けた。「一方で、IFRSには、財務諸表に重要性がなければ、リースの識別と測定の適用を免除できる規定があります。これを援用すると、リース料の総額が300万円を超えるリースでも、オフバランス処理が可能です」
「しかし、日本のリース基準に同様の取扱いは規定されていません」
音宮の言葉は冷徹だった。彼の目には、妥協を許さない強さが宿っていた。黒嶺は眉をしかめながらも、想定の範囲内の反応だと理解していた。その横で、誠人は不機嫌を顔に隠しきれないでいた。こんな話で時間を取られている場合ではない。霧坂はどこにいるのか。今、彼女は何を思っているのか。そんな思いが、彼の心を占めていた。
「おっしゃるとおりです」
氷倉は音宮の反論をいったん受け止める。その態度には経験から学んだ交渉術が表れていた。
「ただ、ASBJはコメント対応で、一般的な重要性の記載であるため、少額リースに限定されるものではないとの見解を示しています。したがって、財務諸表全体としての影響が軽微であれば、オフバランス処理を選択できる余地があると解釈しています」
「それは基準上の文言ではないため、規範性、すなわち効力がどの程度あるかに疑問が残ります。基準から逸脱するようだと、監査上は否定せざるを得ません」
音宮の反論は止まらない。その声には専門家としてのプライドと自信が滲んでいた。誠人は苛立ちを覚えながらも、昨夜の後悔に押しつぶされそうになっていた。この場にいる全員が他人事に思えた。彼にとって本当に重要なのは、美咲がなぜ去ったのか、その理由を知ることだった。
「まあまあ」
筆頭サイナーの暁原が音宮を制した。彼の声には穏やかさがあったが、その奥には「これ以上議論を続けても意味がない」という諦めのが感じられた。
「話を最後まで聞きましょう。意見交換はそこからで」
氷倉はグルーピングしたスライドを映した。
「ご覧ください。ここに、不動産賃貸借契約をグルーピングしました。まず、事業用か居住用かに分け、次に、事業用を規模別にA、B、Cの3つのランクに分類しています」
それらは全て、美咲の緻密な分析力が生み出した成果だった。グルーピングした不動産賃貸借契約ごとに、総資産や負債総額、財務比率への影響が詳細に分析されている。氷倉は美咲の分析力に驚きながら、この説明を行っていた。
美咲が昨夜、残業していた理由は、このスライドの作成だった。しかし、あのときはまだ完成していなかったはずだ。ということは、美咲は今朝、この会議室に来ていたことになる。その後で、彼女は去ることを決めたのだ。その事実が、誠人の胸を締め付けた。
もしかすると、まだ近くにいるのではないか。今にも会議室を飛び出したい衝動に駆られる。しかし、昨夜と同じように、彼の体は動かなかった。このまま美咲を失うのか。いや、それは認められない。会議が終わったら、必ず彼女を見つけ出す。そう誠人は心に誓った。
窓からの陽光が、会議室のテーブルに明暗の境界線を描いている。証明できないもの。それは会計基準の解釈だけではなかった。誠人の胸の中で、美咲への想いもまた、証明を待っていた。彼は今、その重みを痛いほど感じていた。
議論は続いていたが、誠人の心はもう遠く離れていた。彼が今、証明したかったのは、会計基準の適用方法ではなく、美咲への想いだった。それがどれほど真剣なものであるかを、彼女に伝えたかった。だが、その機会は、目の前から消えようとしていた。
会議室の窓から差し込む光が次第に傾き、床の影が少しずつ動いていく。時間は容赦なく流れ、取り戻せないものが確実に増えていくように感じられた。
(第18話「最悪の事態」へ続く)