2019年11月、このブログに「本を読む人に惹かれる理由」という短いコラムを書いた。
それから7年近く経つというのに、この記事には今でも検索から人がやって来る。少し気になってSearch Consoleを開いてみると、「本を読む人 雰囲気」「本を読む女性 男性 心理」といった検索語が並んでいた。
なるほど。本を読む人には、何やら「雰囲気」があるらしい。
本屋で文庫本を一冊買ったところで急に後光が差すわけではないし、電車で本を開いていれば三割増しで魅力的に見える、なんて統計もたぶんない。それでも、本を読む人にどこか惹かれる人がいて、その理由を知りたくて、7年前に書いた私の文章までたどり着いている。
当時の私は、その理由を「自分の知らない世界を知っているから」だと考えた。自分の知らない小説を読み、知らない考え方に触れ、自分が使わない言葉を知っている。そんな人と話していると、自分一人では行かなかったところまで連れていってもらえる。それが魅力なのではないか、と。
今でも、これは間違っていないと思う。
だが、少々困ったことになった。生成AIが登場したのである。
知らないことなら、生成AIに聞けばいい。「これはどういう意味?」「反対の考え方は?」「もっと別の見方はない?」。こちらが質問をやめない限り、向こうもまず話をやめない。知識の量では、人間が太刀打ちできる相手ではない。
そうすると、「自分の知らない世界を知っている」ことが本を読む人の魅力なら、生成AIの登場で、その魅力はいくらか薄れてもよさそうなものだ。
ところが、そうならない。私は今でも、本を読む人に惹かれる。では、7年前の答えには、何が足りなかったのだろう。
AIには身体がない。でも、読む人にはある
2026年8月、発売されたばかりの渡邊康弘氏の『AI時代の 読む技術大全 「考えられない」「集中できない」から脱却!』(朝日新聞出版)を自宅で読んでいた。
本を読んでいて、「これは後で使うな」と思ったページは端を折る。いわゆるドッグイヤーだ。きれいな本を好む人には叱られそうだが、私は折る。その日も、あるページで手が止まり、角を小さく折った。「身体感覚と結びついた知識」という話だった。
本の中では、「悲しい」という言葉が例に挙げられている。私たちは「悲しい」を、辞書に載っている意味だけで理解しているわけではない。胸が締めつけられる。涙が出そうになる。声が震える。そうした身体感覚と一緒に「悲しい」を理解している。
AIは違う。「悲しい」という言葉を、文章の中で正しく使うことはできる。だが、胸が締めつけられることはない。涙が出そうになることもない。著者は、こうした身体感覚と結びついた知識を持つ私たち自身の知的な仕組みを「体内LLM」と呼び、読書によってそれを磨いていくことが、AI時代における人間の強みになると説く。
ここで私は、本とは少し違うことを考えた。AI自身には身体がない。でも、AIが書いた文章を読む人間には身体がある。だったら、生成AIに文章を書かせるとき、読む人の身体感覚に届くような言葉を意識させたら、文章は変わるのではないか。そこで思い出したのが、VAKだった。
「読む技術」を、AIの「書く技術」にしてみる
VAKとは、Visual(視覚)、Auditory(聴覚)、Kinesthetic(身体感覚)の頭文字で、NLP(神経言語プログラミング)で使われる考え方である。『AI時代の 読む技術大全』でも、情報をどのように取り入れるかという観点から、VAKを拡張した考え方が紹介されている。
目に浮かぶもの。耳に聞こえるもの。身体で感じるもの。読むときにそうした感覚を使うのなら、逆向きにも使えるのではないか。つまり、生成AIの「書く技術」にしてしまうのである。
実験台にしたのは、小説でもエッセイでもない。学校法人監査について書いていた、かなり硬い記事だった。たとえば、「何を基礎となる指標として選ぶかという段階で、既に職業的専門家としての判断が入り込んでいます。」でも意味は通じる。特に間違ってもいない。
そこで、身体感覚、つまりKの要素を少し強くしてみる。すると、「何を基礎となる指標として選ぶかという段階で、既に職業的専門家としての判断が重要な重みを持っています。」とできる。
こうして「判断が入り込む」が、「判断が重みを持つ」になった。「重要性」という会計監査の概念と、「重み」という身体で感じられる言葉が重なる。
もう一つ。「両者は同じものを測っているわけではありません。」という記述を視覚、Vの側へ少し寄せると、「両者は、学校法人の異なる側面を捉える指標です。」となった。
こちらも、言っていることはほとんど変わらない。だが、「同じものを測っていない」と否定形で説明されるより、二つの指標が学校法人の別々の面を捉えている図が、ほんの少し浮かびやすい。
この二つの表現は、実際に翌日公開した「学校法人監査の重要性は何を指標にするか」という記事に入れた。ただし、これでアクセスが倍増した、などという景気のいい話はない。そもそも公開したばかりだ。
でも、面白かった。生成AIに身体ができたわけではない。「その文章を読むのは、身体を持った人間ですよ」という条件を一つ足しただけだ。それでも、言葉は少し変わる。発売されたばかりの本から、新しい文章の書き方を一つ拾ったつもりでいた。
ところが、しばらくそんなことを試していて、ふと思った。待てよ。これ、昔にもやっていなかったか。
BARBEE BOYSが収益認識会計基準にやって来た
2021年8月に、「なんだったんだ、収益認識の5ステップ」というブログを書いた。タイトルからして、すでに怪しい。
私はBARBEE BOYSが好きで、中でも「なんだったんだ? 7 DAYS」という曲がある。そこで、収益認識会計基準について書いた記事の中へ、この曲をこっそり紛れ込ませたのである。
書き出しから、曲を知っている人ならすぐ気づく仕掛けを入れた。途中にも曲を思わせる言葉を置き、終盤では歌詞をもじり、最後まで「7 DAYS」を引っ張った。さすがに誰にも気づかれなかったら寂しいので、追伸で種明かしまでしている。
何をやっているんだ、と言われれば、そのとおりである。テーマは収益認識会計基準だ。BARBEE BOYSとは何の関係もない。
だが、その曲を知っている人なら、文章の中に置かれた言葉を読んだ瞬間、頭の中であの曲が鳴るかもしれない。一度鳴り始めれば、あとは勝手に続く。もしかしたら、その曲をよく聴いていた頃の風景や、その頃一緒にいた人まで思い出すかもしれない。
文字しか書いていないのに、読む人の頭の中では音が鳴る。今なら、「Aを使っている」と説明するところだろう。当時の私は、そんなことは考えていなかった。ただ、小難しい会計基準の話を、文字だけで終わらせたくなかったのだと思う。
新しい文章術をAIで試しているつもりだったら、5年前の自分が先にやっていた。なんだったんだ、VAK。
本には書いていないことを、本から読む
ここで、少し妙なことに気づく。
『AI時代の 読む技術大全』には、私が2021年にBARBEE BOYSを収益認識会計基準へ放り込んだ話など、もちろん書いていない。学校法人監査の重要性についても書いていない。それなのに、一冊の本を読んだ結果、その二つがつながった。これが、読書の面白いところなのだと思う。
本を読むというと、つい、本に書いてある情報を頭へ入れることだと考える。「この本から何を学んだの?」と聞かれれば、要点を三つぐらいにまとめて答えたくなる。生成AIなら、そこは大得意である。「この本のポイントを5つに整理してください」。はい、どうぞ。
だが、本を読んで実際に起きることは、そんなに行儀がよくない。一つの言葉から、昔の記事を思い出す。昔聴いた音楽につながる。仕事で書いている原稿につながる。そういえば、あの人の本もそうだった、と別の本まで本棚から引っ張り出したくなる。
今回もそうだった。同書には「三幕構成読み」という話も出てくる。私は三幕構成を、文章やセミナーを組み立てるときに使うことがあるから、「ああ、書く側ではなく、読む側から来たか」と思った。
以前から著書を追いかけている菅下清廣氏について、私は「この人は三幕構成を意識して本を書いているのではないか」と勝手に疑っている。目次を見て、ページをめくっていくと、「ほら、ここで第二幕が動いた」と思うことがある。ところが出版社が変わると、それが感じられないこともある。
著者なのか、編集者なのか。それとも、単に私の読みすぎなのか。これはこれで面白い話なのだが、始めると長くなるので、また別の機会にしよう。
ともかく、本を読んでいると、こうして話が勝手に横へ伸びる。それは本に書かれている知識そのものではない。本に書かれたものと、それまで自分が見たり、聞いたり、考えたり、仕事をしたりしてきたこととの間で起きる化学反応のようなものだ。
そう考えて、ふと気づいた。これは、この本で読んだ「体内LLM」の話と、どこか似ている。
本を読んでいるのは、何も書かれていない新品の頭ではない。そこには、それまで読んだ本も、仕事で考えたことも、昔聴いたBARBEE BOYSも、全部入っている。新しい一冊は、そこへ入ってくる。すると、ときどき思いもよらないもの同士がつながる。
読書とは、新しい知識を入れるだけではなく、自分の中にすでにあるものの結びつきを変えることでもあるのかもしれない。
では、生成AIではだめなのか
ここまで書くと、「いや、それなら生成AIと話していても、同じようなことは起きるでしょう」と言われそうである。そのとおり。実際、起きる。
生成AIとの対話から昔の経験を思い出すこともあるし、自分では考えなかった方向へ話が進むこともある。だから、「AIなんか使わずに本を読め」と言いたいわけではない。そんなことを言ったら、毎日のように生成AIを使っている私自身が困る。
むしろ、AIを使うようになったからこそ、本を読むときに自分の中で何が起きているのかを、以前より意識するようになった。
AIはこちらが問いを投げれば、答えを返してくれる。それに対して、本は、ときどき、こちらが訊いてもいなかったところを叩いてくる。
ページをめくっていると、ある一文で手が止まる。「ん?」と思う。ページの端を折る。その瞬間から、著者が書いた文章を離れて、自分の中で別の話が始まる。昔のことを思い出したり、仕事のアイデアにつながったり、「これを生成AIで試してみよう」と思ったりする。
もちろん、それは本だけに起こることではない。ただ、少なくとも私にとって、本にはそういう偶然がかなりある。検索窓に入れた問いへの答えではない。自分でもまだ問いにしていなかった何かに、不意にぶつかる。そこが面白い。
そうか、「雰囲気」はそこにあるのか
さて、7年前の話へ戻ろう。
2019年の私は、本を読む人に惹かれるのは「自分の知らない世界を知っているから」だと書いた。生成AIが登場した今、それだけなら、少し説得力が弱くなった。知識ならAIにも聞ける。要約もしてくれる。反論も出してくれる。こちらが頼めば、自分とはまったく違う立場から議論させることもできる。
でも、同じ本を読んだ二人が、同じものを持ち帰ってくることはない。ある人は一つの文章から子供の頃のことを思い出すかもしれない。ある人は仕事上の失敗を思い出すかもしれない。ある人は映画へ行き、ある人は音楽へ行く。
私の場合、発売されたばかりの『AI時代の 読む技術大全』を読んで、学校法人監査へ行き、VAKへ行き、そこから5年前のBARBEE BOYSへ行った。著者がそんな読まれ方を想定していたかどうかは知らない。たぶん、していない。
なぜなら、その半分は本の中ではなく、読む前から私の中にあったからだ。本は同じでも、それを読む人の「体内LLM」は同じではない。
何を読んできたか。何を見てきたか。どんな仕事をしてきたか。何を面白いと思い、何に失敗し、どんな音楽を聴いてきたか。そういうものを抱えた人間が一冊の本を読むから、そこから生まれるものも人によって違う。
そう考えると、7年前の記事へ今も検索からやって来る人たちの「本を読む人 雰囲気」という、なんとも曖昧な検索語が、少し面白く見えてくる。本を読む人の「雰囲気」とは、知識量のことではないのかもしれない。
どんな本を読み、どこでページを折り、どの言葉で立ち止まり、その言葉を自分のどんな記憶とつないできたか。そういうものが、その人の中に少しずつ積もっている。だから、本を読んだ人と話すのは面白い。
「そこに引っ掛かったの?」「そこから、そんなことを思い出したの?」本当に聞きたいのは、本に何が書いてあったかより、むしろその先なのだ。
7年前、私は「知らない世界を知っている人」に惹かれるのだと思っていた。今なら、もう少しこう言いたい。本を読んで、その人にしかつくれない世界を持っている人に惹かれるのだと。
生成AIがどれだけ多くの世界を見せてくれるようになっても、その人が何を見て、何を聞き、何を感じ、そこから何と何を結びつけるのかまでは同じにならない。
そうか。みんなが検索していた「雰囲気」の正体は、案外、そこにあるのかもしれない。






