不正リスクを監査報告書でどう語るのか――ISA 240改訂をめぐる論争
総括記事
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不正関連KAMが、いよいよ日本にもやってくる。
2026年8月、日本公認会計士協会(JICPA)から、監査基準報告書240「財務諸表監査における不正」の改正公開草案が公表された。
もっとも、この話を初めて知ったわけではない。ISA 240の改訂、とりわけ不正に関連するKAMについては、以前から動きを追っていた。だから公開草案を見たとき、この機会に一度、ISA 240(Revised)ができるまでの議論を振り返ってみようと思った。
少し遡ってみると、話は思っていたよりずっと複雑だった。不正について監査報告書でもっと語ろうという方向は同じでも、どこまで語らせるのかをめぐって、監査法人、投資家、監督当局の考え方はかなり違う。一つ確認すると、その前が気になる。その資料を読むと、なぜその案が消えたのかを知りたくなる。コメントレターまで読むと、同じ公開草案を見ているはずなのに、立場によってこれほど見えている景色が違うのかと思う。それが面白いの何のって。
そうやって遡っているうちに、ISA 240改訂をめぐる論争を記事にしたくなった。しかし、一つの記事ではとても収まらない。気がつけば、6本になっていた。いろいろな立場からの意見を読んでいくうちに、自分が不正関連KAMの何に期待し、何を心配しているのかが、少しずつはっきりしてきたからだ。
なぜ私はKAMをこれほど気にしてきたのか。不正関連KAMに何を期待しているのか。IAASBの議論を追って、考えがどう変わったのか。そして、なぜ最後にJICPAへコメントを出すことにしたのか。その話をしたい。
そもそも、なぜKAMが好きなのだろう
私は、KAMが好きである。
こう書くと、少し変わった趣味のように見える。JICPAの研修で「KAM分析の第一人者」と紹介していただいたことがあった。ありがたい話ではあるのだが、それだけKAMを追いかけてきたということでもある。
では、なぜそんなにKAMが気になるのか。それは、監査という仕事が外からはとても見えにくいからだ。
監査人は、一年間の監査でいろいろなことを考える。会社やその事業を理解する。どこに重要な虚偽表示リスクがあるのかを考える。経営者や監査役等と話をする。監査手続を組み立てる。思っていたような証拠が得られなければ、追加の手続をする。ときには監査チームの中でかなり難しい議論もする。
ところが、KAMが導入されるまでは、最後に出てくる監査報告書には、その多くが消えていた。残っていたのは、監査意見という結論だった。いわば、pass/fail型の監査報告である。もちろん、それが監査報告書の中心であることに今でも変わりはない。
ただ、金融危機を経て、大きな企業が経営危機に陥ったり、破綻したりする。それなのに、直前の監査報告書を読んでも、監査人が何を心配し、どこに時間をかけていたのかは、ほとんど分からない。読み手からすれば、訊きたくなる。
「で、監査人は何をしていたの?」
KAMが生まれた背景には、この問いがある。監査の結論だけではなく、そこに至るまでに監査人が何を重要だと考え、どこに特に注意を払ったのか。その一部を、監査報告書の外側にいる人にも見えるようにする。私は、KAMのそこに惹かれた。
同じ「のれんの減損」でも、会社によって書かれていることは違う。同じ収益認識でも、監査人がどこに難しさを感じたのかは違う。そうした違いが文章に現れているKAMを読むと、監査報告書の向こう側にあった監査が、少し見える気がする。KAMの価値はそこにある。
だから、不正関連KAMが日本にやってくると聞いたときも期待した。同時に、少し心配にもなった。
だから、不正関連KAMには期待と懸念がある
KAMを長く分析していると、どうしても気になることがある。それは、ボイラープレートだ。
もちろん、すべてのKAMがそうだという話ではない。企業固有の事情がよく出ている事例もある。そんな事例をみると、「この会社の監査では、ここが大変だったんだな」と伝わってくる。毎年かなり工夫して記載を変えている監査チームもある。
その反対に、会社名を替えてもそのまま使えそうな文章もある。監査基準に書かれている手続を順番に並べたようなものや、前年とほとんど変わらず、「今年もこれか」と思うものもある。
同じKAMが毎年続くこと自体が悪いわけではない。事業が同じなら、重要なリスクもそう簡単には変わらないこともあるだろうし、監査手続だって毎年まったく違うことをするわけではない。
それでも、文章は増えたのに、監査がそれほど見えるようになっていない。そんなKAMがある。だから、不正関連KAMにも同じことが起きるのではないかと気になっていた。
不正という領域には、監査基準上の共通した枠組みがある。収益認識の不正リスクや経営者による内部統制の無効化に対応するため、監査人が行うべきことも定められている。だから不正関連KAMを強く求めれば、いかにも「それらしい」KAMを作ることはできる。
毎年似たリスクが選ばれ、似た監査手続が並び、会社名を替えれば翌年も使えそうな記載になったらどうだろう。それが「新しい定型文」になるのは、あまり見たくなかった。
一方で、不正については監査報告書でもっと語ってもよいのではないかとも思っていた。
日本では、大手監査法人が監査している上場企業でも、大型の会計不正が起きている。もちろん、大きな不正が起きたからといって、それだけで監査の失敗とはいえない。それでも後から不正が明らかになれば、やはり投資家をはじめとした監査報告書の利用者はこう思うに違いない。「監査人は、何をしていたのだろう」と。
これは、KAMが生まれたときに監査へ向けられた問いとよく似ている。そうであるなら、不正についても、監査人が何をリスクと考え、どのように対応していたのかを、もう少し外から見えるようにしてもよいのではないか。
だから、ISA 240の改訂の過程で、不正関連KAMの報告を強く促そうとする動きには関心があった。日本への導入を考えれば、最終的なISA 240(Revised)よりも、もう少し強く報告を促す仕組みでもよいのではないか。そんなことも考えていた。
ボイラープレートは嫌だが、不正についてはもっと書いてほしい。少し勝手な話にも聞こえる。でも、気にしていたのは、不正について監査がもう少し見えるようになってほしい。それだけだった。
さて、IAASBはこの問題をどう考えていたのだろう。
調べてみると、みんな言っていることに一理あった
まず気になったのは、監査法人側の懸念だった。不正関連KAMの報告を強く促しすぎれば、KAM本来の職業的判断が歪むのではないかと指摘する。監査人が「当年度の監査において最も重要だったから選ぶ」のではなく、「不正関連KAMを何か一つ出した方がよいから選ぶ」ようになれば、KAMの意味が変わってしまうというのだ。
これは、ボイラープレートの問題とも重なった。報告を強く求めることが、必ずしも透明性につながるとは限らない。
ただ、反対側からはまったく違う景色が見えていた。
CFA InstituteやCEAOBの意見を読むと、関心は不正関連KAMを出すかどうかだけではない。監査人はそのリスクにどう対応したのか。何を発見したのか。どのような結論に至ったのか。財務諸表利用者にとって、監査報告書は監査人が何をしているのかを知るための数少ない手掛かりである。だから、そこまで知りたいという発想になる。
さらに面白かったのは、透明性を求める側も一枚岩ではなかったことだった。
IOSCOは、不正関連KAMの報告を強く促す方向には積極的だった。一方、不正関連KAMが一件もない場合に、その旨を監査報告書に書かせるnegative statementには慎重だった。「不正関連KAMはない」という記載が「不正はなかった」という意味に理解されると、監査人が保証していないことまで保証したように受け取られかねないからだ。
他方で、CRUFからは、逆向きの誤解も指摘された。不正関連KAMと書けば、「この会社では実際に不正があった」と受け取られるかもしれない。
困ったことに、どれも一理ある。誰か一人が明らかに間違っていれば、話は簡単なのだが、そうではない。
報告を強く促せば、KAM本来の職業的判断や個別性を損なうかもしれない。かといって、監査の中身が外から見えないままでよいわけでもない。さらに、見せ方によっては新しい期待ギャップまで生まれる。
最初は、「最低一件に近づけるのか、それともゼロ件を認めるのか」という線引きが重要だと思っていた。もちろん、制度としては重要な論点である。でも、それだけを見ていると、この議論の面白いところを取り逃がす。
監査報告書は、不正についてどこまで語るべきなのか。6本の記事を書きながら、次第にこちらの問いの方が気になるようになった。
結局、「透明性」とは何なのだろう
いろいろな意見を追っていて、妙なことに気づいた。みんな、透明性を高めようとしている。ところが、同じ「透明性」という言葉を使いながら、見せたいものが違う。
情報を一つ増やせば、それまでなかった誤解が生まれることがある。では、もっと深く説明すればよいのかというと、今度は監査報告書がどこまで監査の結果を語るべきなのかという境界にぶつかる。
そう考えると、「透明性を高める」という言葉は、とても便利で、同時に難しい。反対しにくいスローガンだが、何をどこまで見せることを透明性と呼ぶのかを決めなければ、方向は定まらない。
ここで自分がこれまでKAMを見ながら感じてきたことと、IAASBをめぐる議論がつながった気がした。詳しく書いてあるKAMが、必ずしもよいKAMとは限らない。短いKAMが、必ずしも悪いわけでもない。手続がたくさん並んでいれば、透明性が高いとも限らない。
結局、知りたいのは、そのKAMによって、今まで見えなかった監査が少しでも見えるようになったかどうかだ。ただし、見えた「つもり」になって、違うものを見ていたのでは困る。不正関連KAMでは、そこが普通のKAM以上に難しいのだと思う。
監査報告書が不正について何も語らないままでは、今回の改訂が目指した透明性は十分に実現しないかもしれない。かといって、何かを書かせればよい、もっと詳しく書かせればよいと進めば、ボイラープレートや新しい期待ギャップを生むかもしれない。その間をどう取るのか。
IAASBが長い時間をかけて線を引こうとしていた理由も、議論を追った後ではよく分かる。そして私自身も、「もっと不正関連KAMを出せばよい」というところからは少し離れた。ただし、「だからゼロ件でもよい」と思うようになったわけでもない。件数よりも、その前にどのような判断がされたのかが気になるようになった。
不正関連KAMに期待しているのは、監査報告書の文字数が増えることではない。監査人が不正についてどう向き合ったのかが、誤解を生まない形で、これまでより少しでも見えるようになること。そう考えるようになってから、JICPAの公開草案をもう一度読むと、一つ気になるところが出てきた。
それで、JICPAにコメントを出した
気になったのは、A180項だった。
そこには、不正に関連するKAMを一つも決定しないことは「まれ」であるという趣旨に続いて、「少なくとも一つは存在していると考えられる」という表現が置かれている。さらにA185項では、監査人が特に注意を払った不正に関連する事項は「通常」、KAMになるとされている。
続けて読むと、少し引っかかる。KAMを職業的判断によって選び取る前から、「不正関連KAMは少なくとも一つ存在している」という前提が置かれているようにも読めるからだ。私がJICPAにコメントしたのは、この点だった。
ISA 240(Revised)が強く方向づけているものは残したい。不正に関連する事項について改めてKAMを検討し、「通常」はKAMになるという考え方まで弱める必要はないと思う。しかし、「少なくとも一つ存在する」ことを出発点にはしたくない。
KAMは、あくまで監査人が特に注意を払った事項の中から、当年度の監査において最も重要な事項を職業的判断によって決定するものである。その判断をした結果として、不正関連KAMが一件になることもあれば、ゼロ件になることもある。
「ゼロ件になり得る」ことと、「ゼロ件を何も考えずに出発点にする」ことは違う。同じように、「通常はKAMになる」ことと、「最初から一件は存在する」ことも違う。この微妙なところを、日本の基準でも残してほしい。
監査人は、何をしていたのか
いろいろ調べた結果、不正関連KAMを何件出すべきかについて、きれいな答えが出たわけではない。
ただ、最初から気にしていたことは、むしろはっきりした。企業で大きな問題が起きたとき、監査報告書の読み手が抱くのは、やはりあの問いだからである。
「監査人は、何をしていたのか。」
KAMは、その問いに少しでも答えるために生まれた。不正関連KAMが日本の監査報告書に現れたとき、その問いに、これまでより少しでも答えられるものになっているだろうか。
私が見たいのは、そこなのである。













