2030年1月。
夜島誠人の視線が、グランドボールルームの後方に据え付けられた重厚な柱に吸い寄せられていた。高級ホテルの最上階に設えられた会場には、三百人を超える聴衆が詰めかけていた。英国の大手コンサルティング・ファームの日本進出を祝うローンチイベントだ。誠人がここにいるのは、入社当時からメンター役である黒嶺尚吾のたった一言がきっかけだった。
「行かなきゃ、一生後悔するぞ」
その言葉には、何かを見透かすような響きがあった。黒嶺は誠人の心の奥底に潜む何かを感じ取っていたのだろう。もし彼に背中を押されなければ、誠人はきっとここには来ていなかった。
それでも今、自分がここにいることが正しかったのかどうか、まだ判断がつかない。シャンデリアから零れ落ちる柔らかな光が、彼の迷いを優しく包み込んでいた。
その時、最後の講演者が壇上に立った。
霧坂美咲──。
その名前が司会者の口から告げられた瞬間、誠人の鼓動は一拍分、止まったように感じた。五年ぶりに見る彼女は、黒いジャケットに身を包み、以前と変わらぬ凛とした佇まいを見せていた。だが、何かが違っていた。かつての彼女には見られなかった、確かな自信が全身から溢れ出ていた。
美咲は、スクリーンに映し出された図表について英語を交えながら的確に解説する。その姿は、誠人の記憶にある美咲とは別人のようにも思えた。いつの間にか彼女は、手の届かない場所へと行ってしまったかのようだ。
「日本の会計実務に必要なのは、財務モデルの専門家です」美咲の声が、クリスタルのように透明に響き渡る。「まだまだ明確に活用している企業は少ないのではないでしょうか」
誠人は無意識のうちに背筋を伸ばしていた。かつて彼女の傍らで財務モデルを見ていた頃と同じ姿勢だった。あの頃の自分とは違い、今では経理部課長を務めるようになっている。しかし、その基礎を築いたのは紛れもなく彼女だった。
「見違えるようだな、霧坂は」
隣で黒嶺がつぶやいた。その言葉に返事をしようとした瞬間、後ろから明るい声が飛び込んできた。
「何、二人して黄昏れちゃって。ドラマのワンシーンじゃあるまいし」
振り向くと、陽野沙織が立っていた。AIスタートアップに転職して以来、すっかり洗練された雰囲気を纏っている。彼女の髪は五年前より短くなり、細身のスーツが大人の女性の佇まいを引き立てていた。総務課の若手だった頃の面影は消え、代わりに自信に満ちた表情が浮かんでいる。
「久しぶりだな、陽野」
黒嶺の目が細められた。その仕草には、懐かしさと共に、何か言いたげな思いが隠されていた。「プロジェクト以来だから、もう五年か」
「そうですね。あの後、すぐ転職しちゃいましたから」
沙織は誠人の横顔をちらりと見た。かつて共に過ごした日々への郷愁と、今この瞬間を楽しむような光が混じった眼差しだった。
「会えなくて寂しかったでしょ?」
冗談めかした口調に、誠人は顔をそむけた。
「バカなこと言うな」
低い声で返したものの、その「会えなくて」という言葉が誰を指しているのか、彼自身にも分からなかった。それは五年という歳月がもたらした、あいまいな感情でもあった。
壇上の美咲は、スライドを切り替えながら話を続けている。彼女の一挙手一投足が、誠人の目には鮮明に映っていた。会場の照明が暗くなっても、美咲だけは特別な光に包まれているように見えた。
その時、さらに一つの影が加わった。
「やっぱり、来てたか」
振り返ると、氷倉隆が立っていた。かつてのプロジェクトリーダーで、今は別の会社のCFOだ。年齢を重ねても、その眼差しは昔と変わらず鋭く、まるで人の心を見通すようだった。
「お久しぶりです、本部長」黒嶺が軽くお辞儀をする。年月を経ても変わらない敬意が滲んでいた。
「もう君の上司じゃないよ」氷倉は微笑んだ。その表情には、過ぎ去った日々を懐かしむような柔らかさがあった。「霧坂の講演があると聞いてね。懐かしい顔に会えるかと思ってな」
壇上では、美咲のプレゼンテーションが終盤に差し掛かっていた。「私も最初、財務モデルってよく分かっていなかったんです」
その言葉に、誠人は思わず目を閉じた。新リース導入プロジェクト。あの頃の彼らは、まだ何も知らなかった。自分たちが向かう未来のことも、これから始まる物語のことも。そして、彼らの間で交わされることになる想いのことも。
──過去に縛られたままではいられない。
その思いが、静かに胸の内に広がる。五年前の自分なら、美咲の言葉にただ懐かしさを感じるだけで終わっていただろう。しかし、今は違う。彼は過去を見つめながらも、前に進む術を身につけていた。
「前職で、新しいリース会計基準の導入プロジェクトに参加していました」美咲の声が会場に響く。「そこで算定したものがが、初めて作成した財務モデルでした。ただ、実装される前に退職したので、うまく機能したかどうか、今でも不安で…」
これを聞いた黒嶺は、氷倉と沙織に告げた。「いや、霧坂の財務モデリングはすごいんだよ。今でも、監査法人から何一つ指摘がないんだから。そうだよな」
黒嶺に問われ、誠人は小さく頷いた。「ああ」その声は、かつての彼女への想いを今も抱え続けていることを、静かに物語っていた。だが、心の中にあるのはそれだけではない。彼の中には言葉にならない決意が芽生えていた。
美咲の講演が終わり、会場が明るくなった。司会者が閉会の挨拶を始めだす。氷倉は「混みだすから、今のうちに外に出よう」と三人を外に誘導した。
過去を振り返ることに意味があるとすれば、それは未来を見据えるためだ。会場を出る前に、もう一度、壇上を見上げた。五年前の自分なら、ここで立ち尽くしていただけかもしれない。しかし今の彼には、何かを変える力があった。
ホテルの出口に向かう途中、沙織が人差し指をラウンジに向けた。
「よければ、お茶しません?」
「いいね」と氷倉は賛同し、通路沿いのテーブルに着席した。
誠人がカプチーノを注文したのを見て、沙織がからかう。「あれ、肉まんから卒業したの?」
「ホテルのラウンジに置いてある訳ないだろ」
誠人は言い返したものの、「肉まん」という言葉で五年前のプロジェクトの日々が鮮明に蘇ってきた。それは2024年12月の会議室での出来事。時は戻り、物語は始まる。