Accounting

『リースの数だけ駆け抜けて』第2話「小さな勉強会」

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2024年12月上旬の午後、本社ビルの会議室に佇む霧坂美咲の姿は、まるで時を忘れたかのようだった。机上の資料とノートパソコン、それに並べられた企業会計基準第34号「リースに関する会計基準」の冊子。彼女の視線は、画面に映る数字の群れに釘付けになっている。時折眉間にしわを寄せては画面を見つめ直す仕草には、何かを探り当てようとする真摯な意志が感じられた。

「失礼」

静かに開いたドアから、一人の男性が入ってきた。端正な顔立ちに冷静な目をした管理本部長、氷倉隆だ。別世界から舞い降りてきたかのような違和感のある姿だった。

「ホワイトボードのペンがインク切れでね。こっちの部屋のを借りていくから」

氷倉はそう言いながら、彼女の背後にあるホワイトボードに向かった。美咲は少し慌てた様子で「あ、はい。どうぞ…」と返事をした。その声には、集中を乱された戸惑いが混じっていた。

氷倉はペンを手に取りながら、ふと美咲のデスクに目をやった。「リース」と記載された資料の表紙が目に入る。まるで運命のいたずらのように。

「新しいリース会計基準の対策か」彼は興味を示した。「この会社は小売店舗が百を超えるからな。ほとんどが賃借物件だから、不動産賃貸借契約の影響は相当大きいだろう」

「はい、そうなんです」美咲は椅子から少し身を起こして答えた。誰かに理解されることへの安堵感が垣間見えた仕草だった。「私は経理部の所属なんですが、部長から若手で研究してくれと頼まれて…これからメンバーが集まって検討する予定なんです」

氷倉は彼女のパソコン画面に視線を移した。複雑な表計算ソフトが開かれ、入力欄や算定結果欄が驚くほどに並んでいる。それは美咲の几帳面な性格を如実に表していた。

「なるほど。資産計上額を算定するために、必要な情報を入力していたんだ」

彼は少し身を乗り出して画面を覗き込んだ。「それにしても、入力項目が多いな。不動産賃貸借なら毎月の賃借料に期間をかけるだけだろ?」と氷倉は不思議がった。

美咲は少し緊張しながらも、自分の作業を説明した。誰かに理解してもらいたいという思いが滲む声だった。

「私も最初はそう思っていたんです。でも実際は…」彼女は少し言葉を選びながら続けた。その慎重さには、複雑な現実を前にした戸惑いが感じられた。「例えば、『借手のリース料』に何を含めるかから検討しないといけません。毎月固定の賃借料の店舗もあれば、売上に応じて変動する店舗もあります。月額の賃借料だけでなく、共益費や看板代なども…」

彼女が作成した算定シートには、一つの契約について四十近い項目が並んでいた。それは単なる数字の羅列ではなく, 美咲の思考の軌跡そのものだった。氷倉の目が少し見開かれる。

「すごいな」

彼の声には純粋な感心が含まれていた。会計基準だけでなく、実務に即してここまで短時間にまとめ上げた彼女の仕事ぶりに、明らかな関心を示していた。その瞬間、まるで時が止まったかのように静かな空気が流れた。

そのとき、ドアから声がかかった。「氷倉本部長、会議が始まりますので」

氷倉は残念そうに肩をすくめた。「それじゃあ」

彼が去るのと入れ替わりに、陽野沙織が明るい笑顔で飛び込んできた。その存在は、会議室の重厚な空気を一気に変えた。

「わぁ、美咲先輩と一緒の仕事だぁ!」

沙織は両手を振りながら美咲に近づいた。後ろから、法務部の黒嶺尚吾が厚いファイルを何冊も抱えて入ってきた。彼の姿は、この場に新たな緊張感をもたらした。

「陽野も少しは持てよ」黒嶺の声には軽い皮肉が混じっていた。言葉の裏には、彼なりの気遣いが隠されていた。

「私はわざわざ外部倉庫まで足を運んで契約書の原本を取ってきたんですから」沙織は鼻を高くした。「そこまでが総務部の仕事。で、解釈は法務部の黒嶺さんの担当でしょ」

「それにしても」沙織は声をひそめた。「今出ていった人、氷倉本部長ですよね。転職してきて早々に、うちの新規事業をリストラすると言い出した人でしょう?」

沙織は興味を隠せない様子で尋ねた。その声には、単なる好奇心以上のものが潜んでいた。

「そのおかげで、法務部は撤退処理に振り回されているよ」黒嶺はため息混じりに答えた。「一円でも高く処分したお金をコア事業の小売店舗の出店に投じるって話だ。かなりの大型店も計画しているらしいが…」

彼は周囲を見回した。その目は何かを探していた。「その辺りは店舗開発の夜島が詳しいはずだが。まだ来ていないのか?」

美咲が「夜島くんからは昨日、店舗開発室の会議が長引くかもと聞いています」と答えたその瞬間、ドアが開いた。

「いやぁ、長い会議でお昼に行けなくてさぁ」

夜島誠人は少し息を切らしながら入ってきた。手にはコンビニの袋。その姿は、この場の緊張感を一気に和らげた。

「それって、氷倉本部長の大型店の件?」沙織が聞くと、誠人は眉をひそめた。

「ほんと、人の仕事を増やすよなぁ」彼は袋から肉まんを取り出し、ためらいもなく一口かじった。その何気ない仕草に、美咲は小さくため息をついた。

「相変わらず緊張感がないな、お前は」黒嶺の非難に、誠人は「へへへ」と満面の笑みを浮かべるだけだった。その表情には、周囲の空気を読めない無邪気さが残っていた。

「みんな揃ったので、始めましょうか」

美咲は姿勢を正した。その声には、これから始まる重要な議論への覚悟が感じられた。

「経理部長から、この勉強会で新リース会計基準の影響を検討するように言われています」

美咲の声が、会議室に響く。外から差し込む薄暗い冬の光が、彼女の横顔を柔らかく照らしていた。

「あれだろ?」誠人は二つ目の肉まんを手に取りながら言った。これから始まる議論への緊張感のなさが表れていた。「小売店の不動産賃貸借契約が資産計上されるやつ。店舗開発室の仕事も増えるの?」

投げやりな態度に、美咲は少し眉をひそめた。誠人への苛立ちと、どこか諦めにも似た感情が混じっていた。

「資産計上されるのはその通りだけど、実務処理としては負債のほうが重要なの」彼女は落ち着いた声で説明した。それは、初めて会計を学ぶ子どもに教える口調だった。「『リース負債』の計上額が決まらないと、『使用権資産』の金額も定まらないので」

「あ、それって…」沙織が興奮した様子で口を挟んだ。「美咲先輩に言われてIFRSの情報を調べていたら、IFRS第16号によって『いつか実際に航空会社の貸借対照表に計上されている飛行機に乗ってみたい』という願いが実現するってリリース文があったんです!」

その独特の表現に、部屋の空気が少し和らいだ。窓から差し込む冬の光が、彼らの姿を静かに照らしている。まるで、これから始まる長い道のりを見守るかのように。

美咲は微笑みながら補足した。「当期の契約によって将来に拘束されるキャッシュ・アウトフローがあるなら、それを負債計上すべきという考え方になるって、会計学の研究者が解説しているんです」

「事前に会計基準を読んできたが…」黒嶺は眼鏡を押し上げながら言った。「確かに、国際的な会計基準と負債の認識に違いが生じることが問題視されていたな。IFRS会計基準と米国のリース基準で資産計上が完全に一致しなくても、実務上は『リース負債』の計上額がカギになるのは間違いなさそうだ」

三つ目の肉まんを平らげた夜島は、理屈話にはうんざりという表情で言った。「とりあえず、実際の契約で検討してみようよ」

夜島の提案に、美咲はわずかに目を細めた。感情を表に出さない彼女にしては珍しい反応だった。そこには、彼の言葉の中に実務的な思考を見出した驚きと、微かな喜びが混じっていた。

「そうね、実際の契約で検討するのがいいかも」

彼女はノートパソコンを中央に向け直し、四人が見やすいように画面を調整した。陽外の薄暗い冬の光が窓から差し込み、彼らの姿をやわらかく照らしていた。

そうして、新リース会計基準の勉強会が始まった。それは単なる実務の検討会ではなく、この四人の人生を大きく変える物語の始まりでもあった。誰もがまだ、そのことに気づいていなかったけれど。

 

(第3話「四人の交差点」へ続く)

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