FSFD

有価証券報告書に二つの制度が同居している——人的資本開示の構造的矛盾

(記事にはプロモーションが含まれることがあります。)  

 

おそらく多くの企業が、いまこう理解しているのではないでしょうか。「SSBJ基準が導入され、その中で人的資本も扱われる。だから人的資本開示は、サステナビリティ開示の一部として整理すればよい」と。

しかしこの理解は不正確です。人的資本という同一のテーマが、異なる政策的文脈を通じて同時に制度化されているからです。この構造的な問題を解きほぐすことが、本稿の目的です。

 

この動きの直接の起点となったのは、2025年6月に相次いで公表された三つの政策文書です。

6月13日公表の「経済財政運営と改革の基本方針2025」(いわゆる骨太の方針)は、有価証券報告書における人的資本開示の充実を明示しました。同日公表の「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画2025改訂版」は、人的資本を企業の価値創造と戦略達成の重要な構成要素として位置付けました。さらに、経営戦略と人材戦略を関連付けた開示が投資家にとって有用であると明示し、有価証券報告書での開示拡充を求めました。

続いて6月30日公表の「コーポレートガバナンス改革の実践に向けたアクションプログラム2025」は、従業員給与・報酬に関する記載事項の整理と、人材戦略、給与決定方針、平均給与の前年比増減率といった具体的な開示項目の導入を提起しました。これら三文書が一気に公表された2025年6月は、日本の人的資本開示にとって決定的な転換点となりました。

この政策的要請を受け、金融庁は2026年2月に「企業内容等の開示に関する内閣府令」の改正を公布しました。この府令改正が有価証券報告書の内部構造に何をもたらしたかを正確に把握する必要があります。

最も象徴的な変更は、「従業員の状況」の配置転換です。従来、この情報は「第1【企業の概況】」に記載され、事業所数や資本金などと並ぶ企業の基本的属性として扱われていました。今回の改正でこの情報が「第4【提出会社の状況】」へ移動したことは、人的資本を企業規模の説明から切り離し、ガバナンスおよび経営戦略の文脈に再配置したことを意味します。「第4【提出会社の状況】」は、株式構造や役員構成、大株主といったコーポレートガバナンスに関する情報が集まる章だからです。この点にこそ、本質的な意義があります。つまり人的資本情報は、企業規模の基本属性としての説明から、経営戦略と連動した情報へと、有価証券報告書の内部構造の中で根本的に再定義されたのです。

 

一方、有価証券報告書でSSBJ基準に基づくサステナビリティ関連財務情報の開示要求は、これとは明確に異なる経路をたどっています。IFRS財団によるISSB設立を起点として、IFRS S1号およびIFRS S2号が公表され、これらと整合するサステナビリティ開示基準として日本ではSSBJ基準が開発されました。これが金融庁から「一般に公正妥当と認められるサステナビリティ情報の作成及び開示に関する基準」として告示指定されるという流れの中で形成されてきました。

この枠組みにおいて人的資本は、サステナビリティ関連リスクおよび機会の一要素として位置付けられます。企業の将来キャッシュ・フローや競争力に影響を与える要因として分析されたうえで、その情報が合理的な投資家の意思決定に影響を与えると判断された場合にはじめて、関連情報の開示義務が生じます。

こうして二つの制度回路は、有価証券報告書という同一の文書の内部で交差することになります。本稿ではこの状況を、日本の企業報告制度における「制度の二重性」と呼びます。制度の二重性とは、単に制度が複雑化しているという意味ではありません。二つの制度回路が同一文書の内部に共存し、かつ相互の接続が求められるという、開示設計上の構造的問題に他なりません。

購読者限定|この先で扱う内容
二つの制度回路が併存するなかで、人的資本開示にどのような不整合が生じ得るのかを検討し、有価証券報告書全体の一貫性を確保するための開示設計を考えます。
・新設された三つの開示項目の関係とISSBの人的資本研究との接点
・人材戦略、マテリアリティ判断、指標定義をめぐる構造的齟齬
・制度の二重性を踏まえた開示情報の接続と三層構造による設計

 

巻き込まれた人を、救い出せる人になる。前のページ

IFRS S2のシナリオ分析、どこまで書けば十分か――比例性原則の実務的読み方次のページ

関連記事

  1. FSFD

    ガバナンスの図に、これを足し忘れていませんか

    今後の展開を考えるなら、2023年3月期の有価証券報告書におけるサス…

  2. FSFD

    寄稿「財務報告におけるサステナビリティ開示への経理部門の関与のポイント」

    「サステナビリティ開示は、将来の記述情報だけではなく、今の財務諸表に…

  3. FSFD

    気候関連の報酬は開示できるものなのか

    ISSBのS2基準によれば、気候関連の報酬について開示が求められてい…

  4. FSFD

    サステナビリティ開示を支える「経過措置の4つの適用パターン」徹底解説

    2024年11月29日、SSBJは公開草案「指標の報告のための算定期…

  5. FSFD

    サステナビリティ開示:準拠表明の真実と戦略的意義

    SSBJ基準への準拠表明が、サステナビリティ開示戦略において重要な議…

  1. Accounting

    300万円基準を超えた不動産賃貸借は、すべて精査すべきか――新リース会計基準にお…
  2. Accounting

    内部監査の経験者から「大変、勉強になります」と評価を受けた会計不正対応セミナー
  3. Accounting

    財務報告の流儀 Vol.023 三谷産業、あずさ
  4. FSFD

    【特別公開版】「米国がやめるから、日本もいらない」は本当か――AI競争が突きつけ…
  5. Accounting

    有報・記述情報のアドバイザリー業務で用いているツール
PAGE TOP