ISSBが策定したIFRS S2「気候関連開示」は、企業に対し、気候関連のリスクと機会に対応するための移行計画の開示を求めています。日本でも、SSBJが策定した国内基準はISSB基準との整合性を重視していることから、移行計画の開示は日本企業にとって重要な実務課題となっています。
もっとも、ISSB基準およびSSBJ基準に基づく開示実務は、まだ本格的な蓄積の途上にあります。そのため、移行計画をどのような構造で示せば、投資家にとって有用な情報となるのかについて、参照しやすい実例は多くありません。
そこで本稿が注目するのが、ESRSに準拠した欧州企業の開示です。もちろん、ESRSはダブル・マテリアリティを起点とするのに対し、ISSBは企業価値を起点とするため、両者の制度趣旨、開示の目的、対象、範囲は一致しません。したがって、本稿がESRSから参照するのは、制度全体や開示項目の網羅的枠組みではありません。参照するのは、移行計画を投資家が評価可能な形で示すための開示上の技法です。
本稿では、ESRSに準拠した先行事例であるユニリーバの開示から、移行計画の構造化に関する実務上の工夫を抽出します。そのうえで、その工夫をISSB基準の目的に照らして分析し、ISSB基準との整合性を重視するSSBJ基準のもとで、日本企業の開示実務にどのような示唆が得られるかを検討します。
なお、本稿はIFRS S2の明文規定を逐条的に解説するものではありません。投資家に有用な移行計画開示を設計するための分析視点を示すものです。
移行計画は「有無」ではなく「質」が問われる
IFRS S2パラグラフ14(a)(iv)は、企業に対し、気候関連のリスクと機会に対応するための移行計画を開示することを求めています。ここで重要なのは、移行計画を開示しているか否かだけではありません。投資家が、その計画の実現可能性を評価できるだけの情報が示されているかどうかです。
この観点からみると、移行計画の開示において論点となるのは、少なくとも次の四点です。
第一に、企業がどのような気候関連のリスクと機会に対応しようとしているのか。第二に、その対応のためにどのような行動をとるのか。第三に、その計画がどのような仮定や依存関係の上に成り立っているのか。第四に、投資家が進捗や実現可能性を読み取れる構造で情報が示されているか、という点です。
EFRAG-ISSB対応表(Table 2.1)では、ESRS E1-1(気候変動緩和の移行計画)が、IFRS S2パラグラフ14(a)(iv)と対応関係を有するものとして整理されています。この対応関係は、制度趣旨の相違を前提としても、移行計画の構造化という実務課題に共通性があることを示しています。
したがって、ESRS準拠企業の先行事例を分析することは、ISSB基準およびそれと整合するSSBJ基準のもとで、どのような開示の質が求められるかを考えるうえで有益です。
日本企業の移行計画開示をどう捉えるか
日本企業の移行計画開示に関する課題は、大きく二つに整理できます。第一は、移行計画の構造化が不十分である場合に生じる問題です。第二は、移行計画の対象範囲が狭く示される場合に生じる問題です。
(1)構造化が不十分な場合、計画の骨格が投資家に伝わらない
移行計画の開示では、再生可能エネルギーの導入、省エネ投資、サプライチェーンとの連携といった施策が示されることがあります。しかし、それらが並列的に記載されるだけでは、計画全体の骨格を示したことにはなりません。
重要なのは、どの施策が全体目標のうちどの部分を担うのか、その重要度や寄与の大きさが示されていることです。これが見えなければ、投資家は計画の重点を把握できません。
同様に、目標達成に不確実性が伴う場合でも、それが抽象的表現にとどまると、不確実性の大きさや性質を評価できません。たとえば、目標のうちどこまでが既存技術や既定施策で対応可能であり、どこからが未確立の解決策に依存しているのかが示されなければ、計画の前提や依存関係を検証する手がかりが不足します。
また、スコープ3開示がカテゴリ別排出量の提示にとどまる場合には、排出源の性質の違いと削減手段との対応関係が十分に示されません。結果として、どの領域でどのような脱炭素ドライバーが有効なのか、どの部分に実行上の難所があるのかについて、判断材料が不足します。
これらはいずれも、移行計画の実現可能性を評価するために必要な構造が十分に示されていない場合の問題です。
(2)対象範囲が狭い場合、戦略の全体像が不明確になる
移行計画の開示は、温室効果ガス排出削減のための緩和行動だけで完結するとは限りません。企業によっては、気候変動の物理的影響への適応行動が事業継続にとって重要となります。また、移行計画の実現が特定の政策環境や市場環境に依存している場合もあります。
このため、移行計画を緩和行動だけで捉えると、企業がどのような前提のもとで移行を構想しているのか、その全体像が十分に伝わりません。リスク対応と機会追求の双方をどのように戦略に組み込んでいるかを示すことが、投資家にとって有用な情報となる場合があります。
なぜ開示は施策リストにとどまりやすいのか
移行計画の構造化が不十分になる背景には、単なる記述技術の問題にとどまらない要因があります。根本には、移行計画をどのような文書として捉えるかという認識上の問題があります。
施策の列挙と戦略の説明は異なる
ISSB基準の規定と目的に照らすと、移行計画は単なる施策の列挙ではなく、気候関連のリスクと機会に対応する戦略の一部として理解されるべきです。
もっとも、IFRS S2の規定文自体が、「目標→レバー→寄与割合→ギャップ」という形を明示しているわけではありません。そこで本稿では、移行計画の構造を読み解くための分析モデルとして、この枠組みを用います。








