Accounting

『リースの数だけ駆け抜けて』第18話「最悪の事態」

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2025年7月1日14時32分。会議室の空気は、次第に重みを増していた。窓から差し込む陽光が、テーブルの上の資料を照らし、その影をくっきりと床に落としている。監査法人との協議は想定の終了時間を超え、管理本部長の氷倉隆と現場主任の音宮和馬の応酬が続いていた。

夜島誠人の耳には、それらの言葉が遠く霞んで聞こえる。頭の中は、今朝発見された一枚のメモで満ちていた。「ごめんなさい。今日付けで退職します。霧坂美咲」——その言葉の重さが、彼の胸を押しつぶしそうになっていた。

監査法人の筆頭サイナー、暁原雅人の声が響く。部屋の空気を切り裂くような、冷静な声だった。

「一般的な重要性の適用には興味深い視点がありますね。ただし、その判断基準となる計算モデルの妥当性を確認させていただきたい」

協議を早く終わらせて美咲を探したい。誠人はそう考えていた。プロジェクターの光が、彼の焦燥を浮き彫りにするように照らしている。氷倉と音宮の話し合いが続くごとに、焦りが増していった。

「では」と音宮が切り出す。その声には、わずかな勝ち誇りが混じっていた。「銀座店の例で見てみましょう。『借手のリース期間』をどのように判断されたのか、具体的にご説明ください」

音宮の視線は鋭かったが、その奥には興味よりも、自分の専門知識を誇示したいという欲求が見え隠れしていた。誠人はそれを直感的に感じ取り、いらだちを覚えた。

氷倉は、美咲が作成した表計算ソフトの画面を映し出した。「銀座店は定期建物賃貸借契約です。使用目的は事業用、契約期間5年。月額賃料は500万円です」

氷倉は表計算ソフトの数値を指差しながら、淡々と説明を続けていた。

「賃料に特約はなく、『借手のリース料』は月額賃料のみとなります。中途解約条項もないため、『解約オプション』は考慮しません。また、契約更新の定めもありませんので、『延長オプション』も存在しません」

その説明は、美咲が残した判断フローに忠実に従っていた。しかし、黒嶺尚吾の表情は曇ったままだ。会議室の窓際に立つ彼の横顔には、悪い予感が刻まれていた。

音宮は契約書の確認を求めた。まず、入力内容との整合性をチェックする。誠人はその様子を見て、無駄なことをしているように感じた。もっと重要なことがあるはずだ——美咲はどこにいるのか。なぜ突然去ったのか。これらの質問が、彼の頭の中でぐるぐると回り続けていた。

「表計算ソフトの『事前説明書』欄には『あり』と入力されていますね。定期建物賃貸借契約の有効性を確認させていただきたい」

音宮の言葉に、黒嶺の表情が強張る。誠人が視線を移すと、黒嶺と氷倉が目を合わせるのが見えた。

「申し訳ありません。ファイルにパスワードがかかっていまして。後日、改めて共有させていただきます」

その言葉には、プロフェッショナルとしての冷静さが込められていたが、会議室の空気はさらに重くなった。

「本当にあるのですか?」

音宮の声が冷たくなる。その目は、疑念の色を増していた。

「もしなければ、普通建物賃貸借契約として扱うことになります。御社の判断方針だと、残存耐用年数で『借手のリース期間』を判断することになりますが」

誠人はこの問題を知らなかった。陽野沙織が自信をもって用意したと話していたはずなのに。そういえば、沙織が同席していないことに気づく。この状況が、彼女の責任ではなく、自分にも責任があるのではないかという思いが、誠人の心をよぎった。

「本日は創業記念日で総務部が休みなもので」と氷倉。「後日には必ず」

「これは重大な問題です」

音宮の声が厳しさを増す。窓から差し込む光が、彼の厳しい表情に影を落とした。

「現在の試算では、残存契約期間の2年でリース負債が1億2,000万円。しかし普通契約となれば、残存耐用年数12年で7億2,000万円です。6倍も開きがある。これは、氷倉本部長が提案される重要性の基準をはるかに超えます」

「ですから、創業記念日で…」と氷倉。しかし音宮は遮った。

「”No documentation, no evidence.”――証拠がなければ、何も証明できない」

その言葉が、会議室に重く響く。まるで判決文のように。誠人は反射的に拳を握りしめた。この状況を変えたい。美咲が必死に作った計算モデルを、守りたい。

「これでは、一般的な重要性の適用など論外です」

誠人は突然、立ち上がった。自分でも驚くほど急な動作だった。心臓が激しく脈打つのを感じながら、彼は言葉を絞り出した。

「何も誤魔化してなんかいない! ただのミスだ。今は休日で誰もいないんだ。後で見せるって言っているんだから、それでいいだろう!」

その声には、美咲への想いが混じっていた。今この瞬間も、彼女の行方を探し続けている心が。音宮は誠人の突然の反応に驚いたが、すぐに冷静さを取り戻した。

ここで、監査法人の暁原が口を開いた。

「この状況は、御社の姿勢そのものが疑われかねないことをご理解していますか」

誠人は事態を掴めない。氷倉と黒嶺は焦りを隠せない。

「基準を超えた適用を提案しながら、肝心の証拠が提示できない。これは単なる書類の有無の問題ではありません」

会議室の窓から差し込む光が、次第に傾きを増していた。一日の時間が過ぎていくのを感じながら、氷倉は昼の言葉を思い出す。「今日は悪いニュースが続くな」

その通りになってしまった。しかし最大の痛手は、美咲の突然の退職だった。彼女が残した計算モデルは、今や沈黙を保ったまま、スクリーンに映し出されている。とはいえ、その精緻な仕組みは、彼女の知性と努力を静かに語り続けていた。

 

(第19話「守るべきもの」へ続く)

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