先日、20年以上前に一緒に仕事をした先輩会計士のことを、ふと思い出した。
まるで哲学者のような雰囲気をまとった人だった。普段はとても温厚だったが、ここぞというときの眼光は鋭い。多くを語る人ではなかった。それでも、ときおり発する短い言葉には、その人の仕事に対する姿勢が凝縮されていた。
それは、四半期報告書制度が始まる前の、企業が半期報告書を提出していた頃のことである。
私は、その先輩会計士が業務執行社員を務める監査現場に、インチャージとして配属された。その会社では、ある会計処理について簡便的な方法を適用していた。対象となる金額がそれほど大きくないうちは、その方法を用いることにも一定の合理性があったのだろう。
しかし、その後、この会計処理の金額的な重要性が増し始めようとしていた。従来どおり簡便的な方法を続けるのではなく、原則的な方法へ移行すべき段階に来ている。監査チームはそう考え、会社に見直しを提案していた。
ただ、会社側には抵抗があり、提案を受け入れない状態が続いていた。
私は、そのやり取りが始まった後に、この監査現場のインチャージとなった。インチャージを務めるようになって初めて迎えた中間決算。その監査結果を会社の担当役員に伝える講評の場でも、この会計処理が議題に上った。
担当役員は、「まだ、このままでいいだろう」と言った。単に変更を先送りしたいというだけではない。なぜ原則的な方法へ変えなければならないのか、納得していない様子だった。
こういう場面で、監査人は何を伝えるべきなのだろう。
会計基準の趣旨を説明することもできる。監査上の考え方を示すこともできる。対象となる金額の重要性が増していることを、改めて丁寧に説明することもできる。しかし、先輩会計士は、そのいずれでもなかった。
担当役員が「なぜ、変えなきゃいけないんだ」と問い返すと、ほんの数秒、間を置いた。そして、静かに、しかし強く言った。
「美しくないんだよ」
その一言の衝撃を、私は今でも忘れられない。
会計基準に違反していると言ったわけではない。監査意見に影響すると迫ったわけでもない。実際、その時点では、従来の処理もなお監査上許容できる範囲にあった。
それでも、対象となる金額の重要性が増しているにもかかわらず、従来の簡便的な方法にとどまり続ける。その姿勢は、美しくない。おそらく、そういう意味だったのだと思う。
先輩会計士がその言葉を発した後、しばらく沈黙が続いた。
わずかな時間だったのかもしれない。しかし、その場にいた私には、静寂が痛く感じられるほど長く思えた。誰が次の言葉を発するのか。そこから何が始まるのか。意識は、その一点に奪われていた。
先に動いたのは、担当役員だった。急にテーブルに両手をつくと、「今回は、このままで行かせてください」と頭を下げた。
先輩会計士は、静かに「わかりました」と答えた。その中間決算では、従来どおりの会計処理を続けることになった。監査上、許容できる範囲にあり、監査意見に影響する問題でもなかったからである。
それでも、話はそれで終わったわけではなかった。担当役員は、自分たちの会計処理が積極的に誇れるものではないことを理解したのだと思う。少なくとも、その場で、単に監査人の要求を拒み続けることはできなかった。
先輩会計士は、相手を論破したのではない。ルールを振りかざして従わせたのでもない。会社が、自分たちの姿勢を自分たちで見つめ直さざるを得ない言葉を置いたのである。私は、その場面を何度も思い返すことになった。
この先輩会計士には、もう一つ、忘れられない言葉がある。
その人は、試験合格後、外資系の監査事務所に勤務した経験があった。当時、その監査事務所では、日本人にも英語風の呼び名が与えられ、互いに「ジョン」や「チャーリー」といった名前で呼び合う風習があったという。先輩会計士は、その風習をひどく嫌っていた。
あるとき、そのことを振り返り、珍しく感情をあらわにして言った。
「犬や猫じゃないんだ」
普段、声を荒らげるような人ではなかった。それだけに、その言葉も強く印象に残った。
英語風の呼び名そのものが問題だったわけではないのだろう。組織に合わせるために、自分の名前まで別のものに置き換えられること。誰かが決めた形式に従ううちに、自分が何者であるのかまで曖昧になっていくこと。そのことに、耐え難い違和感を覚えたのではないかと思う。
「美しくないんだよ」
「犬や猫じゃないんだ」
一見すると、まったく別の場面で発せられた言葉である。一つは、会社の会計処理に向けられたものだった。もう一つは、組織の中での呼ばれ方に向けられたものだった。
しかし、今になって振り返ると、二つの言葉の底には、同じものが流れていたように思う。
会計上は許容される処理であっても、それでよいとは考えない。
組織の風習であっても、自分が納得できなければ受け入れない。
その先輩会計士は、自分の中にある違和感を、周囲に合わせることで押し込めるような人ではなかったのだと思う。
人が誰かに残すものは、体系的に教えられた知識ばかりではない。何気ない場面で発せられた一言が、その後の判断を変えることがある。少なくとも私は、会計基準上許容されるかどうかだけでは、判断を終えられなくなった。監査意見に影響するかどうかだけでも、十分ではないと思うようになった。
制度上は許されている。実務上も、ただちに問題になるわけではない。それでも、本当にこのままでよいのか。自分の判断として、胸を張れるのか。
そして、それは美しいのか。
20年以上たった今も、その問いは私の中に残っている。










