Accounting

「ゼロ件なら書け」は消えた――それでも「ゼロはrare」が残った理由

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不正リスクを監査報告書でどう語るのか――ISA 240改訂をめぐる論争
シリーズ第5回/全6回

 

2025年7月、IAASBは国際監査基準240「財務諸表監査における不正に関する監査人の責任」の改訂版を公表した。ED-240と改訂版を見比べると、不正関連KAMをめぐって一つ、目につく違いがある。

ED-240では、不正関連KAMが一つもないと監査人が判断した場合、その旨をKAMセクションに記載することが求められていた。第64項のnegative statement(不正関連KAMがない旨の記載)である。

ED-240は、この第64項だけを単独で置いていたわけではない。第61項から第64項までを通じて、国際監査基準701(以下「ISA 701」という。)のKAM選定の仕組みに不正という観点を組み込み、不正関連事項を監査報告書に表す仕組みを組み立てていた。

しかし、改訂版では、この第64項に当たる要求事項がない。「監査報告書」の要求事項は第60項から第62項までで終わり、その次は第63項の「経営者確認書」に移る。つまり、監査人が不正関連KAMを一つも選ばなかったとしても、「不正関連KAMはありません」と監査報告書に書く必要はなくなったのである。これだけを見ると、ED-240が不正関連KAMを報告する方向へ監査人を強く押しすぎていたため、IAASBが改訂版でその方向付けを弱めたようにも見える。

ところが、適用指針を読むと、話はそう単純ではない。ED-240で使われていた`ordinarily`(通常)は残っている。さらに、上場企業の監査で不正関連KAMが一つも選ばれないことについての、`may be rare`(まれであると考えられる)という表現も残った。

しかも、これらの表現は再審議で見直しの対象になっている。弱めるべきだという意見も検討されたが、IAASBは、不正関連KAMを監査報告書で伝える方向への働きかけまで弱めれば、透明性を高めるという改訂の目的を損なうとして、適用指針を維持した。「結論の根拠」は、その判断を明示している。

その結果、改訂版では、「ゼロ件なら書け」という要求事項は削除されたのに、「ゼロ件はrare」という方向付けは残ることになった。

なぜ「ゼロ件なら書け」は消えたのに、「ゼロはrare」は残ったのか。

改訂版で何が変わり、何が変わらなかったのかを追っていくと、ED-240をめぐって続いてきた「最低一件」の論争に対する、IAASBの答えが少しずつ見えてくる。

 

まず、ED-240がどのような仕組みを考えていたのかを確認しておこう。

ED-240は、「少なくとも一つの不正関連KAMを報告せよ」と要求していたわけではない。KAMの選定には、ISA 701の仕組みが使われる。監査人が特に注意を払った事項の中から、当期の監査において最も重要な事項を選ぶという基本的な枠組みは変わらなかった。そのうえでED-240は、不正関連事項がKAMとして選ばれる方向へ監査人の判断を促していた。

不正による重要な虚偽表示リスクは`often`(しばしば)、監査人が特に注意を払う事項となる。不正に関連して特に注意を払った事項のうち一つ以上は`ordinarily`、当期の監査において最も重要な事項となる。そして、上場企業の監査で不正関連KAMが一つも選ばれないことは`may be rare`とされた。

それでも、監査人がISA 701に基づいて判断した結果、不正関連KAMが一つもないことはあり得る。ED-240も、その可能性を閉ざしてはいなかった。ただし、ゼロ件なら、それで終わりではなかった。

ED-240第64項は、不正関連KAMがないと判断した場合、その旨をKAMセクションに記載するよう求めていた。適用指針には、`We have determined that there are no key audit matters related to fraud to communicate in our report.`(当監査人は、監査報告書において伝達すべき不正に関連する監査上の主要な検討事項はないと判断した。)というnegative statementの例まで示されていた。

ここに、ED-240の特徴がある。監査人が一件以上の不正関連KAMを選べば、その事項が監査報告書に現れる。反対に、一つも選ばなければ、今度は「不正関連KAMはない」という判断が監査報告書に現れる。一件以上でも、ゼロ件でも、不正関連KAMについて監査人が下した結論が監査報告書から見えるのだ。

ED-240は、不正関連KAMを一件以上選ぶことまでの要求を提案しなかった。その代わり、ゼロ件という結論に至ったときにも、その結論を利用者から見えるようにしていたのである。改訂版で削除されたのは、この後半だった。

 

では、なぜnegative statementは削除されたのか。「結論の根拠」を見ると、IAASBはED-240へのコメントを受けて、この要求事項が`unintended consequences`(意図しない結果)をもたらす可能性を認めている。挙げられたのは三つだった。

一つ目は、利用者に何を意味するものとして読まれるかという問題である。「不正関連KAMはない」と監査人が明記すれば、その一文が、監査人が実際に与えている以上の保証を意味するものとして受け取られるおそれがある。IAASBは、negative statementが期待ギャップを広げる可能性を認めた。

二つ目は、ISA 701との制度的な整合性だった。ISA 701は、監査人が特に注意を払った事項の中から、当期の監査において最も重要であった事項をKAMとして選ぶ仕組みである。ところがED-240では、不正関連事項についてだけ、KAMがなければ「ない」と報告することになる。IAASBは、他のKAMとは異なるこの扱いが混乱を生じさせる可能性を指摘した。

そして三つ目は、監査人の行動への影響である。監査人が「不正関連KAMはない」と書くことを避けようとすれば、本来ならKAMとして報告しなかった事項を不正関連KAMとして記載する可能性がある。透明性を高めるために設けたnegative statementが、かえってボイラープレート化されたKAMを生み出す誘因になり得るのだ。IAASBは、この可能性も意図しない結果の一つとして挙げた。

これら三つは、同じ問題ではない。利用者の受け取り方、ISA 701との整合性、監査人の行動への誘因という、別々の問題であった。単純に「ゼロ件という判断を認めるかどうか」が問題だったのではない。ゼロ件という判断を監査報告書に必ず表示させる仕組みにすると、その一文の受け取られ方、ISA 701との整合性、さらには監査人自身の行動にまで別の問題が生じる。それが再審議で浮かび上がったのである。

IAASBは、この三つを踏まえて、改訂版からnegative statementの要求事項を削除した。これで、不正関連KAMがゼロ件なら「ゼロ件である」と書かなければならない仕組みはなくなった。

では、不正関連KAMを一件以上報告する方向へ監査人を促していた、もう一方の仕組みはどうなったのだろうか。

 

negative statementを削除したのだから、不正関連KAMを報告する方向への働きかけも弱めたのだろうか。改訂版の適用指針を見ると、そうではない。

ED-240では、不正による重要な虚偽表示リスクは`often`、監査人が特に注意を払う事項となり、不正に関連して特に注意を払った事項のうち一つ以上は`ordinarily`、当期の監査において最も重要な事項となるとされていた。さらに、上場企業の監査で不正関連KAMが一つも選ばれないことは`may be rare`とされていた。

改訂版にも、この方向付けは残った。しかも、見直されずに残ったわけではない。「結論の根拠」第70項によれば、再審議では、`often`、`ordinarily`、`may be rare`といった発生可能性を示す表現を弱めるよう求める意見も寄せられていた。それでもIAASBは、これらの表現を変更しなかった。不正関連KAMを監査報告書で伝えるよう促すというIAASBの目的が損なわれ、ひいては、監査報告書の透明性を高めるという改訂の狙いも弱くなると判断したからである。

したがって、negative statementの削除だけを見て、不正関連KAMを監査報告書で伝えるよう促す方向付けそのものが後退したと読むことはできない。

ただ、`may be rare`を残せば、ゼロ件を一件以上の場合とまったく同じように想定される結果として扱わない方向付けも残る。それなら、negative statementを削除したことで、ボイラープレートの問題は本当に解消されたのだろうか。

 

IAASBも、ボイラープレートへの懸念そのものを否定してはいなかった。すでに監査報告書で不正関連事項の報告を求めている法域では、一部の監査報告書に定型的な記載が見られることを認識していた。それでも、`ordinarily`や`may be rare`を弱める方には進まなかった。不正関連KAMの報告を促すという目的を維持したからである。

その代わり、ボイラープレート化につながりかねない別の部分に手を入れた。ED-240のA173には、収益認識や経営者による内部統制の無効化が、不正関連KAMとして`regularly`(一般的に)決定されることがある、という記述があった。最終化にあたり、IAASBはこれを削除した。これらを常に不正関連KAMとして報告しなければならないかのような混乱を招きかねないと考えたためである。negative statementを削除したことについても、ボイラープレートへの懸念をいくらか軽減すると説明している。

ただ、ボイラープレートを抑えるためのもう一つの方向付けは残した。不正関連KAMは企業固有の状況に直接結び付けて記述する。それによって、記載が過度に定型化するのを防ぎ、その結果として時間の経過とともに有用性が低下することも避ける。監査人がそのKAMにどのように対応したかを書く場合にも、一般的・定型的な表現を避ける。ED-240にあったこの考え方は、改訂版にも引き継がれた。

つまり、IAASBはボイラープレートを避けるために、不正関連KAMを報告する方向への働きかけそのものを弱めたわけではない。negative statementを削除するとともに、特定の不正リスクが定型的にKAMになると読まれかねない例示も取り除いた。その一方で、実際に選ばれたKAMについては、企業固有の記述を求める方向を維持した。

ただ、それでボイラープレートのリスクがなくなったわけではない。`may be rare`を残す以上、ゼロ件と一件以上をまったく中立な結果として扱わない方向付けも残り得る。

不正関連KAMを監査報告書で伝えるよう促したい。しかし、そのためだけにKAMが選ばれ、定型的な記載が並ぶことは避けたい。改訂版には、この二つの要請の間にある緊張も残った。

 

監査報告書のどこに「fraud」という言葉を置くのかについても、ED-240から変更があった。

ED-240では、「監査上の主要な検討事項」というセクションの見出しを、「不正に関連する事項を含む監査上の主要な検討事項」へ変更することが提案されていた。個々のKAMを読む前から、このセクションに不正関連事項が含まれることを利用者に示す設計である。この見出しには、少なくとも一つは不正関連KAMが報告されることを要求しているように受け取られかねない、という懸念が寄せられた。

改訂版ではnegative statementも削除されたため、不正関連KAMが実際には一つも報告されていないのに、KAMセクションの見出しだけに「不正に関連する事項を含む監査上の主要な検討事項」と掲げられる監査報告書も生じ得る。IAASBは、それでは見出しが誤解を招き得るとして、この文言を削除した。

ただし、監査報告書における「fraud」という表示そのものをなくしたわけではない。改訂版ISA 240第62項では、実際に不正関連事項がKAMとして選定された場合、その事項が不正に関連することを明確に示す適切な小見出しを使うことが要求されている。KAMセクション全体の見出しからfraudへの言及を外した以上、個々のKAMでも何も示さなければ、どのKAMが不正に関連するのか利用者が識別しにくくなる。IAASBは、それでは監査報告書の透明性が低下すると考えた。

「fraudを前面に出すか、出さないか」という二者択一ではなかった。不正関連KAMが実際にあるかどうかにかかわらず、KAMセクション全体にfraudと掲げることはやめる。実際に選定されたのであれば、そのKAMが不正に関連することは利用者から分かるようにする。

第4回で見た「どう読まれるか」という問題が、ここではそのまま監査報告書の見せ方に表れている。同じ`fraud`という表示でも、置く場所と条件によって利用者に伝わる意味が変わる。

IAASBが変えたのは、fraudを見せるかどうかではなく、どこに、どのような場合に見せるのかであった。

 

ここで、「最低一件」の問いに戻ろう。

ED-240には、「少なくとも一つの不正関連KAMを報告せよ」とは書かれていなかった。改訂版にも、その要求は置かれていない。しかも、ゼロ件という判断を監査報告書に表示させるnegative statementまで削除された。この点で、ISA 701に基づく職業的判断に委ねられる余地はED-240より広がった。

ただし、`ordinarily`も`may be rare`も残された。改訂版は、ゼロ件と一件以上をまったく中立な結果として扱うところまでは戻っていない。

ここは、要求事項と適用指針を同じ強さのものとして読まないことが重要である。「ゼロ件なら書け」という要求がなくなったことと、「ゼロはrare」という方向付けが残ったことには、規範上の違いがある。

もっとも、IAASB自身がこれを一つの設計思想として説明しているわけではない。改訂版で残ったものと削除されたものを並べると、一定の結論を要求事項で強制するところまでは踏み込まず、不正関連KAMの報告を促す方向付けは残す、という構造が見えてくる。

IAASBは、「最低一件」というルールを作らなかった。しかし、不正関連KAMが報告される方向への働きかけまで中立に戻したわけでもなかった。

「ゼロ件なら書け」は消えた。それでも、「ゼロはrare」は残った。

 

▶ 第6回へ続く

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