この間のブログで、生産性についてお話ししました。「やりがいのある仕事を求めるのは「不自由」」という記事で、単純作業に工夫を加えるのが好きだと語りました。
でも、その翌日、そう話したことをちょっと後悔。なぜなら、久しぶりに読み返した本に、それを否定するかのような記述があったから。その本とは、中谷彰宏サンの『お金の不安がなくなる60の方法 一生モノの「稼ぎ力」をつけよう』(現代書林)。
その本をパラパラと見返していたときに、「単に生産性を上げても、値打ちは上がらない」と明言されていたのです。えーっ、生産性を上げるのが楽しいとブログで話したばかりなのにーーー。
確かに、生産性とは、インプットとアウトプットの比率。同じアウトプットなら、インプットが少ないほうが生産性は高くなります。そこで、ある成果物に至る時間を短縮する局面でこの言葉が使われやすい。
でも、中谷彰宏サンいわく、「上げるべきは、付加価値をつける」ことと言い切ります。例えば作家なら、読者が求めているのは、作家の生産性ではなく、面白い内容や役立つ内容といった付加価値だと説明します。ここでいう付加価値とは、その人にしかできないことを指します。他の誰かと同じ内容では、その本を読む意味がありません。
確かに、1冊の本を今までの半分の時間で書き上げられます、と言われても、その本が面白くなければ、その生産性は何も意味がない。そこで勝負するのではなく、面白くする、役に立つという付加価値で勝負することを説いていると理解しました。
なので、ボクが確認状をいかに速く、かつ、正確に発送しようと、それは生産性の話。それだけでは何も生み出していません。そんなことをブログで書いても何の意味もないと、頭を叩かれたような感覚になりました。反省です。
そう感じながらも、「ボクはどんな局面でもそんな工夫をしているため、筋が通っている。無理をせずに自然とそうなるから」なんて言い訳を考え出したりして。これは才能なんだ、なんてね。まったく反省していません。
一方で、生産性や効率性を声高に叫びながらも、それが特定の局面でしか言わない人がいます。これがすべての局面で叫んでいるのなら、この人は生産性を重んじる性格なんだと理解できます。しかし、すべてではなく特定の局面だけで、筋が通っていない。これって、一体、どういうことなんでしょうか。
もし生産性を高める才能があるのなら、どんな局面でも生産性が低い状態が気になって気になって仕方がないハズ。そわそわして、効率的に流れるように工夫をしないと気が済まない。とても、じっとはしてられない。
ところが、そういう人は、突然、生産性や効率性を叫び出します。こちらの局面ではやたらめったらと効率性を叫ぶのに、あちらの局面になると人が変わったかのように不効率を受けて入れています。だから、生産性を高める才能はないといっていい。
才能がないのにもかかわらず、生産性を求め出すのは、きっと何かを達成したいから。その達成のために、意識的または無意識的かを問わず、そのような態度をとっているのです。心理学者のロバート・キーガン氏の免疫マップのように。
そうした態度の背景には、おそらくは、その人の虚栄心やエゴといったものがあるのでしょう。そのことについて自分は詳しんだと認めてもらいたい気持ちが、周りの人をマウンティングするという態度に現れてくるのです。
そう捉えると、腑に落ちませんか。なんだか急に、愛おしく感じてきますね。少しは優しく接してあげたなら、マウンティングしたくなる気持ちも和らいでくるでしょう。周りの人は嫌な想いをしなくて済みます。
普通ならマウンティングするような人に、誰も優しく接しません。その人にしかできないことなら、付加価値をあげていると説明しました。だから、あなただけができたことなら、それはもう付加価値をつけています。
哲学者でもあり心理学者でもあるウィリアム・ジェームズ氏は、こう言いました。
心が変われば行動が変わる。
行動が変われば習慣が変わる。習慣が変われば人格が変わる。
人格が変われば運命が変わる。
ある人の自己顕示欲を穏やかにできたのなら、行動が変わり、習慣が変わり、人格が変わり、運命が変わる。このように心に働きかけると、最終的には運命まで変えてしまうのです。そんな働きかけが上手くできるなら、思いっきり付加価値を上げられます。コーチングそのもの。
マインドに働きかけることは、どんな局面でも重要です。決してスキルを高めることでも、ツールを提供することでもありません。そこを履き違いして、ツールをいじくってもダメですよ。心から変えなきゃ。