2024年12月中旬。会議室の空気が少しずつ変わり始めていた。霧坂美咲は、これから始まる説明への覚悟を胸に秘めながら、ゆっくりと口を開いた。
「実際の契約を検討する前に、借手の会計処理について説明しますね」
美咲は背筋を伸ばし、夜島誠人の方に視線を向けた。「多分、まだ理解していない人がいるだろうから…」その言葉には、かすかな皮肉と、どこか諦めにも似た感情が混じっていた。
美咲の言葉が誠人に刺さったのか、彼は両手を挙げて降参のポーズをとった。
「何、疑ってるの? ちゃんと読んできたよ、会計基準を」誠人は小首を傾げてから付け加えた。まるで言い訳を考えていたかのように。「でも…文字からアルファ波が出まくりで、眠くなっちゃうんだよ〜」
美咲は一瞬だけ眉間にしわを寄せたが、すぐに表情を戻した。誠人の言い訳はすでに予想済みだった。
「うちの会社の場合、新リース会計基準の影響を最も受けるのは不動産賃貸借契約でしょう」美咲はパソコン画面をスクロールさせながら続けた。
「ここに焦点を当てるなら、『リースの識別』には大きな論点はありません。確かに契約には、リースを構成する賃借料だけでなく、リースを構成しない支払いも含まれているケースもあるけど…」
彼女は画面に表示された表計算ソフトの複雑な表を指さした。無数の数字の群れが、暗号として並んでいる。
「いずれも把握する必要があるけど、『リースを含む契約』であることは明らかです。だから、使用権資産とリース負債の計上を優先していきたいと考えています」
黒嶺が口元に手を当て、軽く咳払いをした。長年の法務担当者としての確かな自信が漂っていた。「ロジカルで良いんじゃないか。うちの会社の貸借対照表に大きなインパクトを与えるだろうからな」
厚いファイルをめくりながらの黒嶺の言葉に、陽野沙織が明るい声で割り込んだ。「美咲先輩、そのインパクトを決めるのが『借手のリース期間』ですよね?」
「そう」美咲は頷いた。その瞬間、誠人は肉まんの袋を丸めながら首を傾げた。
「それって、契約で決まっているだろう。何が問題なの?」
その言葉に、美咲の表情が一瞬だけ曇った。「やっぱり、基準を読んでいないでしょ」
美咲は息を吐き、少し沈黙した。窓から差し込む午後の日差しが、彼女の表情を柔らかく照らしていた。彼女は言葉を選ぶように、ゆっくりと話し始めた。
「ほら、さっき説明したじゃない、当期の契約で将来に拘束されるキャッシュ・アウトフローがあるなら負債計上するって。すると、いつまで支払うのかが論点になるでしょ」
美咲は一枚の紙を取り出し、ペンを走らせた。その音だけが、静かな会議室に響いていた。
「確かに、契約期間の終わりまでは支払いが続くけど、その後も契約更新によって不動産を賃借し続けることがあるし。だから、会計基準では借り続ける期間を決定しなきゃいけないんです」
誠人は頭をかきながら、「そんなの、どう判断するんだよ」と素直な疑問をぶつけた。その表情には、予習をしてこなかったことへの後悔の色が見えた。それは、美咲の真摯な姿勢の前で、自分の不真面目さを恥じる表情でもあった。
美咲は誠人の目をじっと見つめた。「負債計上する以上、適当な判断では済みません」
彼女の指がホワイトボードに向かい、丁寧に三つの項目を書き出していく。小さいながらも整然とした文字に、美咲の几帳面な性格が表れていた。
「会計基準では、三つの期間を合計することを求めています。それが、『解約不能期間』、『借手が行使することが合理的に確実なリースの延長オプションの対象期間』、そして『借手が行使しないことが合理的に確実なリースの解約オプションの対象期間』です」
黒嶺が眼鏡を上げながら話に割って入った。「『合理的に確実』という判断基準は、適用指針では蓋然性が相当程度高いことだと説明されている。過去の慣行に重きを置くのではなく、将来の見積りに焦点を当てろとな」
彼は窓の外を見やり、遠くを見る目をした。「これをひとつひとつの店舗で判断していくのは大変だよな」
「黒嶺さん、ほんと、大変ですね」誠人がからかうように言うと、黒嶺は目を細めた。「お前も一緒に考えるんだよ。店舗開発室だから出店の意図に詳しいだろ」
その言葉に、誠人は思わず背筋を伸ばした。自分の立場の重さを初めて実感したからだ。
沙織は両手を広げて見せた。「そこまでしなければ、リース負債も使用権資産も算定できないって、こりゃ大変だ」
その仕草に、一瞬だけ和やかな空気が流れた。しかし、それは長くは続かなかった。
美咲はパソコンに向き直り、素早く何かを入力した。キーボードを叩く指先には、確かな決意が宿っている。「だから、ひとまず代表的な店舗の賃貸借契約について具体的に検討を進めたいんです。5、6件だけでも今後の検討の仕方がわかると思うから」
黒嶺は腕を組んで考え込んだ。「そう考えると、『借手のリース期間』の設定方法を決めるほうが重要だな。リースの識別は同時並行的に進められても、それを待って『借手のリース期間』を決めていては試算や導入に間に合わないものな」
誠人はスマホを取り出し、時間を確認した。「とにかく、手を動かそう」そして、意外な提案を続けた。「その前に休憩しない?」
沙織は小さく笑った。「夜島さんは休むことにかけては一流ね」その言葉に、部屋の空気が少し緩んだ。美咲も肩の力を抜いた。「そうね」
彼女の声には、少しだけ安堵が混じっていた。このチームでの最後の仕事。それを意識しながらも、彼女は自分を奮い立たせるように背筋を伸ばした。
休憩が始まると、沙織は美咲に近づいた。「そうそう、美咲先輩」彼女は声を少し落とした。「例の話、どうなったんですか?」
その問いかけに、美咲の表情が一瞬だけ硬くなった。彼女は部屋にいる全員に聞こえるように、声のトーンを調整した。
「実は、私、イギリスのビジネススクールに留学することが決まったんです」
黒嶺は軽く頷いた。「そうか、ついにか」その反応に、美咲は少し安心して微笑んだ。しかし、その笑顔の奥には、何か言い切れない感情が潜んでいるようだった。
「来年の夏に向こうに行くので、この会社には2025年6月末で退職することになりました」
その言葉が部屋に落ちた瞬間、誠人の表情が変わった。子どもみたいなむくれ顔は、何かを失いたくないという感情をあからさまに表していた。美咲はそれを見逃さなかった。彼の横顔を見つめながら、彼女は話を続けた。
「経理に身を置く者として、さすがに本決算を前に退職するなんてあり得ないので、引き継ぎをしながら最後の決算を見届けるつもりです。もちろん、この勉強会も最後まで参加したいので、有給休暇を消化せずに6月末まで出社しますから、ご安心ください」
美咲の言葉の一つ一つが、誠人の心に刺さっていく。彼は立ち上がり、「まだ腹が減っているから、肉まん、買ってきます」と何かから逃げ出すように、そそくさと会議室を出ていった。
残された三人の間に、重い空気が流れた。黒嶺はため息をつきながら呟いた。「まだ素直になれないのか」
その言葉に、美咲は何も答えなかった。彼女の心の中で、何かが揺れ動いていた。それは単なる決意や後悔ではない、もっと複雑な感情だった。