気候関連のサステナビリティ開示において、シナリオ分析ほど難解で、同時に実務的挑戦を伴う領域はありません。多くの企業が「データが不十分だから」「モデルが確立していないから」と躊躇する中、2025年10月、国際サステナビリティ基準審議会(ISSB)は極めて示唆的なウェビナー「視点シリーズ」を公開しました。
- “Perspectives series: Climate-related scenario analysis”(気候関連のシナリオ分析)
このウェビナーでISSBが真っ向から否定したのは、「完璧なデータやモデルがなければ始められない」という思い込みです。繰り返し強調されたメッセージは、次の一文に凝縮されていました。
“Start where you are and with what you have.”
(いま持っているリソースと理解の範囲から始めよ)
この言葉は単なる精神論ではありません。シナリオ分析の本質は、未来を正確に予測することではなく、不確実な環境のもとで意思決定の質を高める「思考の訓練」にあるのです。完璧主義が行動を遅らせる間に、市場環境は刻々と変化し、規制は厳格化し、また、投資家の要求水準は高まっていきます。行動を遅らせることこそ、最大のリスクとなるわけですね。
本稿では、ISSB基準の条文には明記されていないウェビナーでの実務的示唆を整理したうえで、①段階的成熟、②多層適用、③体系的手法の三つの観点から、企業がシナリオ分析をどのように実装すべきかを再構成します。
■段階的成熟―比例性の原則に基づく発展プロセス
シナリオ分析は、一足飛びに完成形へと到達するものではありません。ISSBウェビナーが提示したのは、企業の能力・データ環境・組織体制に応じて段階的に発展する「三段階の成熟プロセス」です。これは実に理にかなったアプローチですよ。
第一段階は定性的分析から始まります。経営層や専門部門の知見をもとに、気候変動が事業構造へ及ぼし得る影響を言語化し、主要なリスクと機会を特定するのです。ここでは「仮説の構築」が中心となるため、複雑なモデリングは不要です。むしろ、経営陣が自社の事業を深く理解しているからこそ得られる洞察が、この段階の核心となります。「うちの事業は気候変動とどう関わるのか」という根本的な問いに向き合うことから、すべてが始まるわけです。
第二段階では限定的な定量化へと進みます。主要な仮定を数値化することで、感応度分析によってどの変数が結果に最も影響を与えるかを検証するのです。この段階で初めて、リスクの方向性と規模が可視化されます。たとえば「炭素価格が1トンあたり100ドルになった場合、営業利益にどの程度影響するか」といった問いに、おおよその答えが見えてくるでしょう。完璧な精度は求められませんが、経営判断に足る情報は確実に得られるのです。
第三段階は統合的分析です。財務モデルや気候シミュレーションを活用しながら、シナリオ分析をERM(全社的リスク管理)、戦略立案、資本配分の意思決定へと統合します。この段階では、部門横断的なワーキンググループの機能と、ESG委員会を介した取締役会レベルの監督体制が鍵となります。シナリオ分析が単なる開示対応ではなく、経営の中核プロセスに組み込まれるのは、この段階に到達してからですよ。
このような段階的発展は、IFRS S2号が定める「比例性」の原則と整合しています。比例性とは、企業の規模や能力に応じた合理的な開示を認める考え方ですが、これは決して「手を抜いてよい」という意味ではありません。現状に応じた出発点から始め、得られた洞察を次のサイクルに反映させることで継続的に成熟度を高めていく。この動的なプロセスこそが比例性の真髄なのです。
■多層適用 ― グローバルから事業へ、整合性と柔軟性の両立
ISSBウェビナーが提唱する第二の視点は、シナリオ分析を「まずグローバル、次に事業」という多層構造で展開するアプローチです。これは実務において極めて重要な指針となります。
IEA(国際エネルギー機関)、NGFS(気候リスクに係る金融当局ネットワーク)、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)などが提供する国際シナリオは、いずれも世界全体の経済成長、技術革新、政策導入のタイミングを前提としたグローバル・モデルの上に構築されています。これらは科学的根拠に基づき、かつ国際的な整合性を持つため、企業が独自にゼロから構築するよりもはるかに信頼性が高いのです。
したがって企業はまず、これらグローバル・シナリオを起点にマクロ仮定を把握する必要があります。そのうえで、各事業や地域の実情を反映することで、政策制度・エネルギーミックス・顧客行動などを踏まえた調整を加えるわけです。これにより、分析全体の再現性と実効性が確保されます。「車輪の再発明」に時間を浪費することなく、科学的基盤の上に自社固有の分析を積み上げられるのですから、これほど効率的な方法はありませんよね。
もっとも、気候リスクの性質は地域によって大きく異なります。同じ1.5℃シナリオであっても、アジアでは水資源リスクや台風の激甚化、欧州では炭素価格の上昇や厳格な排出規制、南米では森林政策や生物多様性への影響が、それぞれ重要な要素となるのです。したがって、グループ全体で統一的な枠組みを維持しつつ、各地域単位での調整を許容する”glocal”な手法が不可欠となります。これにより、形式的な開示にとどまらない、実質的なリスク理解が実現するわけです。
この多層アプローチの真価は、グローバルな視点と現場の実態を橋渡しする点にあります。本社の戦略部門が描く大局的なシナリオと、現地法人が直面する具体的なリスクが有機的に結びつくことで、シナリオ分析は初めて経営判断に資する実用的ツールとなるのです。
購読者限定|この先で扱う内容
シナリオ分析を実際の経営判断に役立てるために、シナリオの選択から不確実性の検証、分析結果の活用までを、どのような手順で進めるべきかを検討します。
・政策・市場・気候変動の幅を捉えるシナリオの選択方法
・国際的な情報源を活用した分析の前提条件と、不確実性の検証手法
・分析結果を経営戦略や資本配分に反映し、継続的に改善する仕組み









