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スコープ1しか見ないSASBスタンダードで、この産業の何がわかるのか——ISSB理事の反対票が問いかけるもの

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2026年3月、国際サステナビリティ基準審議会(ISSB)は、SASBスタンダードの3産業、すなわち「農産物」、「食肉、家禽及び乳製品」、「電気事業者及び発電事業者」に関する公開草案を公表しました。

  • ISSB seeks feedback on proposed amendments to three SASB Standards

https://www.ifrs.org/news-and-events/news/2026/03/issb-seeks-feedback-proposed-amends-sasb-standards

しかし、この公表の裏側には、ひとつの重い反対票が存在します。これに先立つ2月の承認会議において、ISSB理事のリチャード・バーカー博士が「食肉、家禽及び乳製品」SASBスタンダードの公開草案の承認に反対票を投じていました。

彼の異議は手続上の瑕疵や技術的細部への不満ではありませんでした。産業別基準の存在意義そのものに関わる構造的な批判であり、SASBスタンダードがその潜在力を発揮し切れていないことへの深い失望から発せられたものです。誤解を避けるために付言すれば、博士自身が「産業別基準およびガイダンスに対する強い支持を改めて表明する」と明記しています。つまり、これは産業別基準そのものへの否定ではなく、その不徹底への抗議なのです。

本稿では、バーカー博士の代替見解の内容を紹介するとともに、ISSB多数派がなぜ異なる判断に至ったのかを「結論の基礎」に即して整理します。読者が両方の見解を比較検討し、自らの判断を形成するための素材を提供することが本稿の目的です。

 

リチャード・バーカー博士の経歴を理解することは、今回の見解の重みを正確に測る上で不可欠です。

バーカー博士は2022年6月にISSB常勤委員に就任しました。前職はオックスフォード大学サイード・ビジネススクールの副学部長兼会計学教授であり、国際会計基準と投資家による財務情報の利用、長期的な事業持続可能性に関するパフォーマンス指標を研究テーマとしてきました。こうした経験から、会計基準とサステナビリティ開示の両領域を横断できる数少ない学術的バックグラウンドを持つ人物です。

実務面でも、その足跡は際立っています。A4S専門家パネル議長、英国Corporate Reporting Council委員、欧州会計学会の会計基準委員会委員を歴任しています。なかでも、 2001年から2007年にはIASBリサーチフェローとしてIFRS会計基準の設計に内側から携わりました。この経験が、IFRSの枠組みの内部論理に即して不整合を指摘する今回のアプローチの説得力を支えています。

 

バーカー博士の見解は「結論の基礎」の独立セクション(項番AV)に記述されています。その主張の核心を一言で要約すれば、次のとおりです。「食肉、家禽及び乳製品」産業のGHG排出、淡水使用、土地利用の大半はバリューチェーン上流(スコープ3)で発生するにもかかわらず、公開草案はスコープ1の直接排出にのみ焦点を当てています(AV32)。これは基準体系としての自己矛盾です。

IFRS S1はバリューチェーン全体を包括的に捉えることを基本思想とします。この思想と、直接事業のみに焦点を当てた公開草案は、明白に矛盾します。バーカー博士は、この矛盾が放置されれば、財務報告の質をむしろ低下させるリスクがあると指摘します(AV33)。そして根本原因として、SASBスタンダードにおける間接活動の扱い方がISSBによって開発されたものではないため、もともとIFRS S1・S2の文脈で適用されることを想定していなかったという構造的問題を挙げています(AV32)。

問題の所在は明らかです。基準は体系として整合していなければ、個々の規定がどれほど精緻であっても、その信頼性は損なわれます。

 

バーカー博士の批判を公正に評価するためには、ISSB多数派がなぜ現行のアプローチを支持したのかを理解しなければなりません。公開草案の「結論の基礎」BC43項は三つの理由を示しています。

第一に、既存のスコープ1指標を削除すれば、ISSBがその指標を重要でないと判断したと市場に誤解されるリスクがあります。第二に、過去のコンサルテーションにおいて利用者はスコープ1指標が直接的な規制リスクに関する重要な情報を提供すると評価してきました。第三に、スコープ1指標を維持することにより、メタンなどの産業固有のテーラリングの基盤が確保されます(BC43)。

さらに重要な点があります。ISSBはバリューチェーン上流を完全に無視しているわけではありません。公開草案は、スコープ3の絶対量を直接開示させるのではなく、スコープ3を左右する「ドライバー」、すなわち森林破壊フリーの調達割合(FB-MP-430b.1)、栄養管理計画を策定した農場からの調達割合(FB-MP-430b.3)などの情報開示を通じた間接的アプローチを採用しているのです(BC44、BC134–BC135)。IFRS S2が既にスコープ3排出の開示を求めている以上、SASBスタンダードで同じ数値を重複して求める必要はない。これがISSBの立場です(BC44)。

これに対しバーカー博士は、三つの理由のいずれもスコープ1の維持根拠にはなり得ても、スコープ3の除外根拠にはならないと切り返します(AV18)。維持と除外は別の問いであり、前者に答えたからといって後者の正当化にはなりません。ここに基準設計の根本的な判断の分かれ目があります。

 

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