(注)今回は、サステナビリティ開示をめぐる議論そのものに関わるテーマであるため、通常のサブスク限定ではなく無料公開します。
「米国が気候開示から後退している。それなのに、日本はこれからSSBJ基準に基づくサステナビリティ開示を始めるのか」
そんな声を目にする。
確かに、米国は気候開示から後退している。SECは2024年に気候関連開示規則を採択したが、その後、訴訟を受けて規則の効力が停止された。2025年3月には、SEC自身が訴訟で規則を防御しない方針に転じた。さらに2026年5月29日には、その一歩先に進み、規則そのものを全面的に撤回する案を公表した。
2024年規則は、一定の気候関連リスク、GHG排出量、異常気象等による財務諸表への影響などの開示を求めるものであった。撤回案が最終化されれば、こうした気候特有の開示要求はなくなる。だから、「米国ですらやめるのだから、日本もそこまでやる必要はない」と考えたくなるのかもしれない。
しかし、その結論は早すぎる。米国が何をやめようとしているのかを確認するだけでは不十分である。なぜ、いまその方向へ動いているのかまで追う必要がある。しかも、変化しているのは気候開示だけではない。GHG排出規制を含む気候政策そのものも、大きく方向を変えている。
では、その背景で何が起きているのか。
中国とのAI競争は、電力競争でもある
米国の気候政策の変化を、「トランプ政権だから」で説明することはできる。実際、トランプ政権は規制緩和や化石燃料の利用拡大を進めてきた。だが、それだけでは現在の米国を半分しか見ていない。もう一つ、巨大な国家戦略が動いている。
そう、AIだ。
2025年7月に公表された「America’s AI Action Plan」は、AIを単なる成長産業ではなく、米国の経済競争力、国家安全保障、技術的優位を左右する戦略分野として位置づけている。そこで強く意識されている競争相手が中国である。
重要なのは、AI競争をモデル性能や半導体だけの競争と捉えないことである。AIの計算能力を拡大するには、データセンターが必要になる。データセンターが増えれば、膨大な電力が必要になる。それを支えるには、発電設備と送電網も拡張しなければならない。
AIの競争力を高めようとすれば、最後には電力という物理的な制約に突き当たる。America’s AI Action Planも、この問題を中国との比較で捉えている。米国のエネルギー供給能力が長期にわたって伸び悩んできた一方、中国は電力網を急速に拡張してきた。その差を抱えたまま、AIで米国が優位を維持できるのかという問題意識である。
米国政府は、AIで世界をリードすることと、十分な電力供給能力を確保することを、すでに同じ国家戦略の中で扱っている。電力は、AI競争を左右する戦略資源になったのである。
AI競争で、電力確保の政策順位が上がった
AI競争の激化は、米国の電力政策の優先順位も変えた。低炭素であることに加えて、大量の電力を安定的に、しかもAI投資の速度に間に合うよう確保することの重要性が高まった。
その変化は、具体的な政策にも表れている。2025年4月の石炭に関する大統領令では、AIや高性能コンピューティングの電力需要を満たすため、石炭火力インフラを活用・拡大する可能性まで検討するよう求めている。
さらに同年7月のデータセンター・インフラに関する大統領令は、AIデータセンターと、それを支えるエネルギーインフラの迅速な整備を優先事項とした。対象には送電設備だけでなく、天然ガスパイプライン、天然ガスタービン、石炭火力設備、原子力設備、地熱設備などが含まれている。
二つの政策に共通するのは、電力の確保を急いでいることである。AI競争では、「いずれ電力が増えればよい」では間に合わない。データセンターや半導体への投資が進む速度に合わせて、発電・送電能力を確保しなければならない。その結果、電力政策では、GHG排出削減だけでなく、供給量、信頼性、価格、整備速度の重みが増した。
そのなかで、気候政策も動いている。2026年9月、米国の環境規制を担うEPA(米国環境保護庁)は、化石燃料発電所に対する2024年のGHG規制の大部分を撤廃した。そのうえで、発電部門に残るGHG基準についても撤廃を提案した。EPAが強調しているのは、安定的かつ安価な電力供給などである。
もっとも、GHG規制の撤廃をAI競争だけで説明することはできない。トランプ政権は、AIとは別に規制緩和や化石燃料利用の拡大を進めてきた。一方で、AI競争によって電力確保の政策的重要性が高まっていることも、ここまで見てきたとおりである。
現在の米国で起きているのは、AIのために気候政策を捨てたという単純な話ではない。GHG排出削減という目的が消えたのではなく、AIを支える電力を早く、大量に、安定的に確保することの政策順位が上がり、その結果としてGHG排出削減の相対的な順位が下がったのである。
政策の優先順位と、情報の重要性は別である
では、この政策の変化によって、気候情報まで重要ではなくなったのか。
そうではない。政府が気候変動対策をどこまで優先するかは、GHG排出削減、経済成長、エネルギー安全保障、電力価格、AI競争など、複数の政策目的をどう比較衡量するかという問題である。一方、ある情報が投資家にとって重要かどうかは、その事象や変化が企業の経済的な見通しに影響するかという問題である。政策の優先順位と、情報の重要性は別である。
SEC自身の議論も、この違いを示している。2026年の撤回案でSECが問題にしているのは、気候情報そのものではない。2024年規則のように、「気候」というテーマを切り出したうえで、多くの企業に詳細な開示を求める制度である。SECは、こうした専用の開示規則は、企業ごとのmateriality(重要性)に基づいて必要な情報を開示させる従来のアプローチと整合しないとしている。
重要なのは、その従来のアプローチに戻ろうとしているからといって、気候に関する情報まで開示対象から消えるわけではないことである。Uyeda委員は、気候変動を含むmaterialな事項は、事業内容、リスク要因、MD&A、財務諸表やその注記といった既存の開示要求の中ですでに扱われるとの考えを示している。つまり、SEC自身の論理に立っても、気候特有の開示規則を撤回することと、気候情報が投資判断に不要になることは同じではない。
政策が動けば、企業価値への影響も動く
政策変更が企業価値に及ぼす影響は、AIデータセンターを運営する企業を考えると分かりやすい。
企業への影響は一方向ではない。電力供給能力が拡大すれば、データセンター増設に伴う電力制約が和らぎ、AI需要を取り込む余地が広がる。他方、電力需要の急増によって価格が上昇すれば、運営コストは膨らむ。さらに、安定的な電力を確保するため、電力関連設備への追加投資や長期の電力調達契約が必要になる場合もある。
利用できる電源が変われば、燃料価格やGHG排出へのエクスポージャーも変わる。政府の規制が緩和されても、顧客が脱炭素要求を維持していれば、企業が実際に選べる電源には別の制約が残る。
また、現在の政策を前提に長期投資をしても、その前提が続く保証はない。将来、政策や技術が変われば、いま合理的に見える投資の採算や資産価値も変わり得る。政策の変更は、企業の外側だけで完結しない。キャッシュフロー、成長機会、資本支出、資産価値、資金調達、資本コストへと伝わっていく。
しかも、その影響は企業ごとに異なる。同じ規制緩和が、ある企業には成長機会となるのに対して、別の企業にはコスト増加や将来の政策反転へのエクスポージャーをもたらすこともある。
したがって、投資家が知りたいのは、「米国の気候政策が後退した」という事実そのものではない。その政策変化が、この企業の価値にどう伝わるのかである。ここから、開示の問題が始まる。
これは「気候のために開示する」という話ではない
サステナビリティ関連財務情報を開示する目的を、ここではっきりさせておきたい。
気候情報を開示するのは、「地球温暖化が重要だから」ではない。「企業には気候変動対策を進める社会的責任があるから」でもない。少なくとも、投資家向けのサステナビリティ開示の出発点は、そこではない。
IFRS S1が求めているのは、企業の短期・中期・長期のキャッシュフロー、ファイナンスへのアクセスまたは資本コストに影響すると合理的に見込み得るサステナビリティ関連のリスクと機会について、投資家の意思決定に有用な情報を提供することである。企業価値を判断するために重要だから開示するのである。「気候だから開示する」のではない。
気候政策を支持するか、批判するか。ESGに賛成するか、反対するか。それと、投資家が企業価値を判断するために必要な情報は何かという問いは別である。
サステナビリティ開示の役割は、政策、市場、技術などの変化が企業価値にどう伝わるのかを、投資家が判断できるようにすることにある。だから、米国の気候政策が後退したという事実だけをもって、「気候情報もいらなくなった」と結論づけることはできない。
日本企業に必要なのは、企業価値までつながる説明である
では、日本企業の開示に何が求められるのか。ここで、「スコープ1、スコープ2、スコープ3をもっと詳しく開示しよう」という話に戻ってはいけない。もちろん、GHG排出量は重要な情報である。しかし、それだけでは、外部環境の変化がその企業の価値にどう伝わるのかは分からない。
必要なのは、外部環境の変化から企業価値までを、一つのつながりとして説明することである。そのためには、少なくとも四つの視点が必要になる。
Exposure――何にさらされているのか
出発点は、自社と外部環境との接点である。電力価格、エネルギー政策、AI需要、炭素規制、顧客の脱炭素要求。同じ変化でも、企業によって受ける影響は異なる。
まず、自社にとって重要な変化を特定し、その変化にどの程度さらされているのかを明らかにする必要がある。「気候リスクがあります」という一般論では、企業固有の姿は見えてこない。
Transmission / Mechanism――その変化は、どう企業価値に伝わるのか
次に、その変化が企業に届く経路を追う。例えば電力価格が上昇すれば、製造原価や運営費が増える。そのコストを価格転嫁できるかどうかで利益への影響は変わる。十分な電力を確保できなければ投資が制約される一方、安定した電力を確保できれば新たな成長機会を取り込める可能性がある。
外部環境の変化と、売上、コスト、設備投資、資産価値、キャッシュフローとの間にある因果を途切れさせてはいけない。この経路が見えなければ、投資家は企業価値への影響を判断できないからだ。
Response――経営は何を変えるのか
企業価値への影響が見えれば、次に必要なのは経営判断とのつながりである。電力調達の方法を変える。設備や立地を見直す。価格へ転嫁する。契約条件を変更する。投資時期をずらす。
重要なのは対応策を並べることではなく、認識したリスクや機会が、実際の意思決定にどう反映されたかを示すことである。「気候変動に取り組んでいる」という説明から、外部環境の変化によって経営判断がどう変わったのかという説明へ進む必要がある。
Residual uncertainty / Resilience――それでも何が残るのか
経営が対応しても、不確実性は消えない。企業の戦略や投資は、政策、価格、需要、技術、顧客行動といった前提の上に成り立っている。そして、その前提は固定されていない。
現在は合理的な戦略であっても、前提が変われば採算も競争力も変わり得る。そこで見るべきなのは、この戦略が何を前提として成り立っているのか、その前提が崩れたときにも戦略は成立するのか、経営はどこまで軌道修正できるのかである。
将来を正確に予測することが目的ではない。不確実な世界のなかで、戦略がどこまで持ちこたえられるのかを見えるようにすることが重要なのである。
これら四つは、相互につながった一つの説明として示す必要がある。自社が何にさらされ、その変化がどの経路で企業価値に届き、経営がどう対応し、それでも何が残るのか。その一連のつながりが見えて、初めて投資家は企業の将来を考えることができる。
だから、開示をつくるときの出発点を変える必要がある。その開示によって、投資家が外部環境の変化による企業価値への影響を、以前より適切に判断できるようになったかである。
「何を開示したか」から、「何を判断できるようになったか」へ。サステナビリティ開示で問われているのは、その転換である。
「米国がやめたから不要」は、問いを間違えている
米国が気候開示から後退している。それは事実である。しかし、その事実だけを切り取って、「だから日本もいらない」と結論づけるのは早計である。問題は、米国がどの制度を採用するかではなく、その政策転換が企業価値に何をもたらすかにある。
気候政策が後退したから開示が不要になるのではない。政策の優先順位が変わり、企業価値への影響が変わるからこそ、その変化を説明する必要がある。
「米国がやめるから、日本もいらない」。そんな一言で終わらせず、企業価値まで考え抜く必要がある。
| サブスク限定コンテンツ「サステナビリティ開示の最前線」では、ISSB・SSBJをはじめとする最新動向を追いながら、投資家は何を知りたいのか、企業は何をどう伝えるべきなのか、そしてそれを実務にどう落とし込むのかを掘り下げています。 |






